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現代語訳

①現代語訳1~10

一番 天智天皇てんじてんのう

秋あきの田たの
かりほの庵いほの 苫とまをあらみ

わが衣手ころもでは
露つゆにぬれつつ

~ 歌の意味 ~

秋の田に作った農作業用の小屋にいると、屋根を葺いた苫の目が荒いので、私の袖は夜霧に濡れてしまう。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

二番 持統天皇じとうてんのう

春はるすぎて 夏なつ来きにけらし 白妙しろたへの

衣ころもほすてふ 天あまの香具山かぐやま

~ 歌の意味 ~

春が過ぎて、夏が来たらしい。天の香具山に真っ白な衣が干されているのだから。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

三番 柿本人麻呂かきのもとのひとまろ

あしびきの 山鳥やまどりの尾をの しだり尾をの

ながながし夜よを ひとりかも寝ねむ

~ 歌の意味 ~

ひとり寝をする習性があるという山鳥のたれさがった尾のように長い夜を、私は一人で寂しく眠るのであろうか。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

四番 山部赤人やまべのあかひと

田子たごの浦うらに うち出いでて見みれば 白妙しろたへの

富士ふじの高嶺たかねに 雪ゆきはふりつつ

~ 歌の意味 ~

田子の浦の海辺に出てみると、真っ白な富士の高嶺には雪が降り積もっている。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

五番 猿丸大夫さるまるだゆう

奥山おくやまに もみぢ踏ふみ分わけ 鳴なく鹿しかの

声こゑ聞きく時ときぞ 秋あきは悲かなしき

~ 歌の意味 ~

奥山で紅葉をふみわけて鳴いている鹿の声を聞くとき、秋が悲しく感じられる。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

六番 中納言家持ちゅうなごんやかもち

かささぎの 渡わたせる橋はしに おく霜しもの

白しろきを見みれば 夜よぞふけにける

~ 歌の意味 ~

鵲が翼を連ねて渡したという橋に降りた真っ白い霜を見ると、夜もふけたということだろう。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

七番 安倍仲麿あべのなかまろ

天あまの原はら ふりさけ見みれば 春日かすがなる

三笠みかさの山やまに 出いでし月つきかも

~ 歌の意味 ~

大空を遥かに眺めてみると、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろうか。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

八番 喜撰法師きせんほうし

わが庵いほは 都みやこのたつみ しかぞすむ

世よをうぢ山やまと 人ひとはいふなり

~ 歌の意味 ~

私は都のたつみ(東南)にある草庵で静かに暮らしているが、しかし、世間の人はここを世間を避けて住む、宇治山と言っているらしい。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

九番 小野小町おののこまち

花はなの色いろは うつりにけりな いたづらに

わが身世みよにふる ながめせしまに

~ 歌の意味 ~

花の色もすっかり色あせてしまいました。降り続く長雨をぼんやりと見ながら物思いにふける間に。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。

十番 蝉丸せみまる

これやこの 行ゆくも帰かへるも 別わかれては

知しるも知しらぬも あふ坂さかの関せき

~ 歌の意味 ~

これがあの噂に聞く、行く人も帰る人もここで別れ、知る人も知らぬ人もここで会うという逢坂の関なのですね。

藤原家隆 鎌倉時代初期 藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。「かりゅう」とも呼ばれる。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける ― 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。
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②現代語訳11~20

十一番 参議篁さんぎたかむら

わたの原はら
八十島やそしまかけて
漕こぎ出いでぬと

人ひとには告つげよ
あまのつり舟ぶね

~ 歌の意味 ~

大海原の島々を目指して漕ぎだして行ったと、都にいる親しい人に告げてください。漁師の釣り船よ。

本名を小野篁(おののたかむら)。遣唐使の副使に選ばれたのに破損した船に乗せられそうになり喧嘩をしたため、当時の嵯峨天皇の怒りにふれ、2年間隠岐に流されました。後に文才を惜しまれ、都に戻され参議にまで出世しています。
【わたの原】広い大海原。【八十島かけて】「やそ」は「たくさん」を意味。「かけ」は「目指して」という意味。「海人」とは、「漁師」の意味。「釣り舟」を人間に見立てて呼びかける、擬人法を使っています。

十二番 僧正遍昭そうじょうへんじょう

天あまつ風かぜ
雲くものかよひ路ぢ
吹ふきとぢよ

をとめの姿すがた
しばしとどめむ

~ 歌の意味 ~

空を吹く風よ、天に通じる道をふさいでおくれ。天女たちがすぐに帰っていかないように、しばらく引き留めたいから。

俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい、桓武天皇の皇孫。蔵人頭として仁明天皇に仕えています。六歌仙の一人。出家する前は「深草少将」と呼ばれ、小野小町に恋する男として「大和物語」にも登場しています。
【天津風】とは「空高く、天を吹く風」のこと。「つ」は「沖つ波」などと同じで、「の」と同じ意味の古い格助詞です。【雲の通ひ路】雲の中にある、天上と地上を結んでいる通路のことで、天女がそこを通って天と地を行き交うと考えられていました。【吹き閉ぢよ】閉ざしてしまえ」。【をとめの姿】「をとめ」とは「天女」のことです。この歌は陰暦11月の新嘗祭(にいなめさい)翌日に宮中で披露される「五節の舞」を舞う少女たちのことを歌ったものですが、少女を天女に見立てています。【しばしとどめむ】「しばらく止めておこう」舞う乙女たちがあまりに美しく、いつまでも見ていたいので、天に帰ってしまうのを、しばらくストップさせよう、という意味です。

十三番 陽成院ようぜいいん

つくばねの
峰みねより落おつる
みなの川がは

こひぞつもりて
淵ふちとなりぬる

~ 歌の意味 ~

筑波山の峰から流れ落ちるみなの川ように、私の恋も積もりに積もって淵のように深くなるばかりだ。

清和天皇の皇子で、第57代天皇に10歳で即位しましたが、病のため17歳で譲位しました。勅撰集にはこの歌のみが残されています。
【筑波嶺の】常陸国の筑波山のことです。山頂が男体山と女体山の2つに分かれ、万葉の昔からよく歌に詠まれました。古代には、春と秋に男女が集まって神を祀り、求愛の歌を歌いながら自由な性行為を楽しむ「歌垣」として知られていました。また「つくばね」の「つく」は相手側に「付く」という意味を表します。【男女川(みなのがは)】「水無乃川」とも書きます。男体山、女体山の峰から流れ出る川なのでこう呼ばれます。霞ヶ浦に流れ込みます。【淵となりぬる】恋心がつのっていく様子を表現しています。

十四番 河原左大臣かわらのさだいじん

陸奥みちのくの
しのぶもぢずり
誰たれゆゑに

乱みだれそめにし
われならなくに

~ 歌の意味 ~

陸奥産のしのぶずりの乱れ模様のように私の心が乱れ初めてきたのは、きっとあなたの為に違いありません。

嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)のことで成長して後、臣籍に下って源氏の姓を受け、左大臣従一位となりました。後に荒れさびて歌の舞台となる京都・賀茂川の河原院を邸宅としていた人物です。
【陸奥】現在の東北地方の太平洋側にあたる東半分を指します。【しのぶもぢずり】「もぢずり」とは、現在の福島県信夫地方で作られていた、乱れ模様の摺り衣(すりごろも)のこと。摺り衣は忍草(しのぶぐさ)の汁を、模様のある石の上にかぶせた布に擦りつけて染める方法で「しのぶずり」などとも言われます。この「しのぶ」は、産地の信夫とも、忍草のことだとも言われます。【誰ゆゑに】誰のせいでそうなったのか、という意味です。【乱れそめにし】 乱れはじめてしまった、という意味。「そめ」は「初め」の意味とともに、「染め」にも引っかけられています。【われならなくに】「私のせいではないのに」という意味で、暗に「あなたのせいよ」という意を秘めています。

十五番 光孝天皇こうこうてんのう

君きみがため
春はるの野のに出いでて
若菜わかなつむ

わが衣手ころもでに
雪ゆきはふりつつ

~ 歌の意味 ~

あなたの為に春の野に出て若菜を摘んでいると、わたしの袖に雪が降りかかってきました。

仁明天皇の第3皇子で、即位前は時康(ときやす)親王でした。陽成(ようぜい)天皇の後、藤原基経(もとつね)に擁立されて即位しましたが、政治判断はすべて基経にまかせていました。関白のはじまりです。
【君がため】の「君」は、誰でしょうね。【若菜摘む】春に生えてきた食用や薬用になる草のことです。「春の七草」かもしれません。昔から、新春に若菜を食べると邪気を払って病気が退散すると考えられており、1月7日に「七草粥」を食べるのはそこから来ています。初春の「若菜摘み」も慣例的な行事でした。 【わが衣手に】は袖の歌語です。

十六番 中納言行平ちゅうなごんゆきひら

立たち別わかれ
いなばの山やまの
峰みねに生おふる

まつとし聞きかば
今いま帰かへり来こむ

~ 歌の意味 ~

あなたと別れて因幡の国へ行くけれども、稲葉山の峰に生える松のように、あなたが「私を待っている」と聞いたなら、すぐにも帰ってまいります。

在原行平(ありわらのゆきひら) 平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の子で、業平の異母兄にあたります。文徳天皇の御代の850年ごろ、過失をおかして一時期須磨に流されたことがありました。
【たち別れ】行平は855年に因幡の国(現在の鳥取県)の守となりました。その赴任のための別れを表しています。 【いなばの山】因幡の国庁近くにある稲羽山のこと。「往なば(行ってしまったならの意味)」と掛詞になっています。 【生(お)ふる】生える、という意味です。【まつとし聞かば】「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞。「聞かば」は仮定を表します。全体では「待っていると聞いたならば」の意味となります。【今帰り来む】「今」は「すぐに」を意味しており、「む」「すぐに帰ってくるよ」という意味です。

十七番 在原業平朝臣ありわらのなりひらあそん

ちはやぶる
神代かみよもきかず
竜田川たつたがは

からくれなゐに
水みづくくるとは

~ 歌の意味 ~

神代の昔にも聞いたことがない。竜田川の水の流れを真っ赤に染めるなどということは。

平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の息子で、百人一首の16番に歌がある、中納言行平(ゆきひら)の異母弟でもあります。六歌仙の一人で、伊勢物語の主人公とされ、小野小町のように「伝説の美男で風流才子」とされました。
【千早(ちはや)ぶる】「神」にかかる枕詞で、激く敏捷にふるまう」という言葉を縮めたものです。【神代(かみよ)もきかず】不思議なことが当たり前に起こった「神々の時代でも聞いたことがない」という意味。 【竜田川】は、紅葉の名所で、現在の奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田山のほとりを流れる川のことです。 【からくれなゐに】「鮮やかな紅色」という意味。「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」を意味する言葉で、「韓や唐土から渡ってきた素晴らしい品」を表します。【水くくるとは】「くくる」は「絞り染め」にするという意味です。竜田川が水を括り染めにしてしまうとは」という意味で、紅葉が川一面を真っ赤にして流れていることを、竜田川が川の水を絞り染めにしてしまった、と見立てます。

十八番 藤原敏行朝臣ふじわらのとしゆきあそん

住すみの江えの
岸きしによる波なみ
よるさへや

夢ゆめの通かよひ路ぢ
人ひとめよくらむ

~ 歌の意味 ~

住の江の岸に打ち寄せる波のように(いつもあなたに会いたいのだが、 どうして夜の夢の中でさえ、人目をはばかって会ってはくれないのだろう。

書が上手く、「小野道風(おののとうふう)は空海と並ぶ書家と褒めた」という伝説が残っています。奥さんは在原業平の義理の妹です。
【住の江の】は、摂津国住吉(現在の大阪府大阪市住吉区)の海岸のことです。【岸による波】「よる」は「寄せてくる」という意味です。ここまでが「寄る」と同音の「夜」を導きだす序詞になります。 【夜さへや】は「夜までも」という意味。全体で「(昼間ならともかく)夜までも…するのか」という意味です。 【夢の通ひ路】「夢の中で女性のもとに通っていく道すがら」という意味です。現実の話ではなく、夢の中での話です。 【人目よくらむ】は「他人の見る目」のことです。「よく」は「避ける」という意味。全体で「他人の目を避けてしまうのだろう」という意味になります。

十九番 伊勢いせ

難波潟なにはがた
みじかき葦あしの
ふしの間まも

あはでこの世よを
過すぐしてよとや

~ 歌の意味 ~

難波潟に茂っている’あし’の、短い節と節の間のようなわずかな時間でさえお会いできずに、この世を過していけとおっしゃるのですか。

紀貫之と並び称されることもあった、古今集時代の代表的歌人。伊勢守藤原継蔭の娘。宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕えましたが、温子の兄の仲平との恋に破局。その後宇多天皇の皇子を生み、伊勢御息所(みやすどころ)となりました。その後、さらに宇多天皇の皇子・敦慶親王とも結ばれ、女流歌人の中務(なかつかさ)を生んでいます。
【難波潟】今の大阪湾の入り江の部分のこと。 【みじかき芦の】「芦」は水辺に生えるイネ科の植物。【ふしの間も】芦の「節」の短さと、逢う時のほんのわずかな時間、という意味を掛けています。【逢はでこの世を】【過ぐしてよとや】 一生を過ごしてしまえと、あなたは言うのでしょうか、という意味。

二十番 元良親王もとよししんのう

わびぬれば
今いまはた同おなじ
難波なにはなる

みをつくしても
あはむとぞ思おもふ

~ 歌の意味 ~

あなたに会えないで思い悩みながら暮らしている今は、身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、あの難波の船の道標として水中に立ててある澪標(みおつくし)のように、この身がどうなってもお会いしたいと思っています。

陽成天皇の第一皇子で風流好色として知られ、大和物語にも登場します。今昔物語には、「いみじき好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆるは、会ひたるにも未だ会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける」と書かれるほどでした。京極御息所、すなわち宇多法皇の女御藤原褒子(ほうし)との熱愛が広く噂になりました。
【わびぬれば】想いわずらい悩む」という意味です。【今はた同じ】「今となっては同じことだ」という意味になります。 【難波なる】「難波にある」という意味です。「難波」は現在の大阪府。 【みをつくしても】「澪漂(みおつくし)」と「身を尽くす」の掛詞です。澪漂は海に建てられた船用の標識で、大阪市の市章と同じ形。「身を尽くし」は「身を滅ぼす」という意味です。【逢はむとぞ思ふ】
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③現代語訳21~30

二十一番 素性法師そせいほうし

今いまこむと
言いひしばかりに
長月ながつきの

有明ありあけの月つきを
待まちいでつるかな

~ 歌の意味 ~

「すぐに行く」と言ったじゃありませんか。夜が明けるまで待っていたのに。

俗名・良岑玄利(よしみねのはるとし)。12番に歌が残る僧正遍昭の子。清和天皇の時代に左近将監(さこんのしょうげん)まで昇進しましたが、父親の命令で出家して雲林院(うりんいん)別当に任ぜられ、大和国石上(現在の奈良県天理市)の良因院の住持となりました。三十六歌仙の一人で、宇多天皇の時代に上皇の御幸で歌を詠むなど活躍しています。
【今来むと】「すぐに行く」の意味。【言ひしばかりに】全体で「(男がすぐ行くと)言ってよこしたばかりに」という意味を表します。【長月】陰暦の9月で、夜が長い晩秋の頃です。【有明の月】夜更けに昇ってきて、夜明けまで空に残っている月のこと。満月を過ぎた十六夜以降の月です。【待ち出でつるかな】要するに、男が来るのを待っているうちに月が出てしまったことをまとめて言った表現です。

二十二番 文屋康秀ふんやのやすひで

吹ふくからに
秋あきの草木くさきの
しをるれば

むべ山風やまかぜを
嵐あらしといふらむ

~ 歌の意味 ~

その風が吹くと、秋の草木がしおれてしまう。なるほど、それで山風のことをあらしというのか。

9世紀頃の平安初期の歌人で、別称・文琳(ぶんりん)。官職は低かったのですが、六歌仙の一人で歌人としては有名でした。三河掾になって三河国に下るときに小野小町を任地へ誘った話が有名です。
【吹くからに】「吹くとすぐに」という意味。「からに」は「~するとすぐに」という意味を表します。 【しをるれば】草木が色あせてしおれる意味。 【むべ】「なるほど」と言う意味。「なるほど、だから山風を嵐と言うのか」と理由を推理して納得しています。 【嵐といふらむ】「らむ」は推量で、「嵐と言うのだろう」という意味になります。「嵐」は「荒らし」との掛詞で、秋の草木を荒らして枯れさせるので「アラシ」と言うのだろうなあ、という意味があります。また「山」と「風」の漢字2文字を合わせれば「嵐」になるという遊びも盛り込まれています。

二十三番 大江千里おおえのちさと

月つきみれば
千々ちぢに物ものこそ
悲かなしけれ

我わが身みひとつの
秋あきにはあらねど

~ 歌の意味 ~

月を見ていると、あんなことも、こんなことも思い出しちゃって悲しくなってくるじゃね~か。私一人だけに訪れた秋ではないのだけれど。

9~10世紀初頭にかけて生きた人だと言われ、大江音人(おとんど)の子で在原業平、行平の甥になります。家集に「句題和歌」があります。中務少丞(なかつかさしょうじょう)や兵部大丞(ひょうぶだいじょう)などを歴任し、伊予国(現在の愛媛県)の権守(ごんのかみ)となったり、罪によって蟄居させられたこともあったそうです。
【ちぢにものこそ悲しけれ】「ちぢ(千々)に」は「さまざまに」だとか「際限なく」という意味で、下の句の「一つ」と対をなす言葉です。「もの」は「自分をとりまくさまざまな物事」ということです。 【わが身一つの】「私一人だけの」という意味。【秋にはあらねど】秋ではないけれども、という意味。

二十四番 菅家かんけ

このたびは
ぬさもとりあへず
手向山たむけやま

紅葉もみぢのにしき
神かみのまにまに

~ 歌の意味 ~

今回の旅は、神様にささげる幣も用意できずに出発してきてしまったよ。 代わりに、神様の意のままに、このきれいな紅葉を捧げますのでお受け取りください。

菅家は尊称で、学問の神様・菅原道真のことです。学者の家に生まれ、35歳の若さで最高の権威・文章博士となり、54歳の899(昌泰2)年には右大臣にまで出世します。しかし謀ごとにより九州・太宰府に流され、59歳で没しました。現在は学問の神様として太宰府天満宮に祀られています。
【このたびは】「たび」は「旅」と「度」の掛詞で、「今度の旅は」という意味になります。 【幣も取りあへず】「幣」は色とりどりの木綿や錦、紙を細かく切ったもの。旅の途中で道祖神にお参りするときに捧げました。「取りあへず」は「用意するひまがなく」という意味になります。【手向(たむけ)山】 山城国から大和国へと行くときに越す山の峠を指し、さらに「神に幣を捧げる」という意味の「手向(たむ)け」が掛けてあります。【神のまにまに】 「神の御心のままに」というような意味。

二十五番 三条右大臣さんじょうのうだいじん

名なにしおはば
逢坂山あふさかやまの
さねかづら

人ひとに知しられで
くるよしもがな

~ 歌の意味 ~

恋しい人に逢えるという「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせるという「さねかずら」、その名前にそむかないならば、さねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。

内大臣・藤原高藤(たかふじ)の次男、藤原定方(さだかた)のことです。藤原兼輔(かねすけ)のいとこで、醍醐天皇時代には兼輔とならぶ和歌の中心的存在でした。息子は藤原朝忠です。
【名にし負(お)はば】「名に負(お)ふ」は「~という名前をもつ」という意味です。 【逢坂山】山城国と近江国の国境にあった山で関所がありました。「逢ふ」との掛詞になっています。 【さねかずら】つる性の植物「小寝(さね=一緒に寝ること)」との掛詞です。 【人に知られで】「他人に知られないで」という意味になります。 【くるよしもがな】「くる」は「来る」と「繰る」の掛詞です。「繰る」は「たぐり寄せる」という意味です。「よし」は「方法」などの意味で、「もがな」は願望の終助詞になります。「あなたを連れて来る手だてが欲しいよ」という意味になります。

二十六番 貞信公ていしんこう

小倉山をぐらやま
峰みねのもみぢ葉ば
心こころあらば

今いまひとたびの
みゆき待またなむ

~ 歌の意味 ~

小倉山の峰の紅葉よ。お前に心があるなら、  もう一度天皇が行幸されるまで、散らずに待っていてくれないか。

藤原忠平(ただひら)のこと。貞信公は、死んでからの送り名です。関白太政大臣、藤原基経(もとつね)の四男で、兄・時平、仲平とともに「三平」と呼ばれます。聡明で人柄が良く、従一位関白の座まで栄達し、藤原氏が栄える基礎を作りました。
【小倉山】京都、右京区嵯峨にある紅葉の美しい名所です。大堰川を挟んで嵐山と向かい合う山で、ふもとに定家の別荘、「小倉山荘」がありました。【心あらば】人間の心があるならば、人の情が分かるならば、の意味。【今ひとたびの】せめてもう一度だけ。切実な感情が表れた表現ですね。【行幸】天皇が訪れられることです。 【待たなむ】は願望を表し「待っていてくれないか」の意味です。

二十七番 中納言兼輔ちゅうなごんかねすけ

みかの原はら
わきて流ながるる
いづみ川がは

いつみきとてか
恋こひしかるらむ

~ 歌の意味 ~

みかの原から湧き出て分かれながら流れる泉川ではないが、逢ったこともない人なのに、なんでこんなに恋しいのだろう。  (一度も逢ったことがないのに)

藤原兼輔。紫式部の曾祖父で、三十六歌仙の一人です。従三位、中納言兼右衛門督まで昇進しました。屋敷が賀茂川堤にあり、「堤中納言」と呼ばれて紀貫之らの大歌人たちがよく屋敷に出入りしていました。10世紀頃の中心的な歌人です。
【みかの原】「瓶原(みかのはら)」と書き、山城国(現在の京都府)の南部にある相楽(そうらく)郡加茂町(かもちょう)を流れる木津川の北側の一部を指します。聖武天皇の時代に、しばらく恭仁京(くにきょう)が置かれました。 【わきて流るる】「分けて」という意味ですが、「分き」と「湧き」(水が湧く)を掛けています。 【泉川】現在の木津川のこと。【いつ見きとてか】「いつ逢ったというのか」 【恋しかるらむ】「恋しいのだろうか」という意味になります。

二十八番 源宗于朝臣みなもとのむねゆきあそん

山里やまざとは
冬ふゆぞさびしさ
まさりける

人ひとめも草くさも
かれぬと思おもへば

~ 歌の意味 ~

都と違って山里の冬は人も訪ねてこないし、草も枯れてしまい、いっそうさみしく感じるものだ。

光孝天皇の孫で是忠(これただ)親王の息子です。894年に臣籍に下って源姓を賜りました。三十六歌仙の一人で、紀貫之などと仲が良かったようですが、出世に恵まれず不遇でした。丹波・摂津・信濃などの権守となっています。
【冬ぞ寂しさ まさりける】「季節の中で冬が一番」というような意味になります。 【人目(ひとめ)も草も】「人目」は人のことで、人も草もすべての生き物が、という意味になります。 【かれぬと思へば】「かれ」は「離れ」と「枯れ」の掛詞で、人が訪問しなくなる意味の「離る」と木が枯れる「枯れ」の二重の意味があります。

二十九番 凡河内躬恒おおしこうちのみつね

心こころあてに
折をらばや折をらむ
初霜はつしもの

おきまどはせる
白菊しらぎくの花はな

~ 歌の意味 ~

初霜が降りて白菊の花がどこに咲いているのかよくわからない。それならば、あてずっぽうに折っててみよう。

9~10世紀初頭の下級役人。しかし歌才に優れ、紀貫之と並ぶ当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれたり、高官の家に招かれたりしています。三十六歌仙の一人で、古今集の撰者です。当時から「詠み口深く思入りたる方は、又類なき者なり」と非常に高く評価されていました。
【心あてに】は「あてずっぽうに」などの意味です。 【折らばや折らむ】「もしも折るというなら折ってみようか」という意味です。 【置きまどはせる】「置く」は、「霜が降りる」という意味です。「まどはす」は、「まぎらわしくする」という意味で、白菊の上に白い霜が降りて、白菊と見分けにくくなっている、という意味を表します。

三十番 壬生忠岑みぶのただみね

ありあけの
つれなく見みえし
別わかれより

暁あかつきばかり
憂うきものはなし

~ 歌の意味 ~

あの日のあなたは、とてもつれなかったな。夜明けの空に月が残っていたっけ。 その日から、夜明けの月を見るとつらく切なくなるのです。

9世紀後半から10世紀前半ごろの人で、「古今集」の撰者の一人。三十六歌仙の一人でもあります。百人一首41番の作者、壬生忠見(みぶのただみ)の父親です。
【有明の】十六夜以降、おおむね二十夜以降の、明け方まで空に残っている月のことです。 【つれなく見えし】「冷淡だ」などの意味です。そのまま「つれない」で現代でも意味は通じます。過去の女との別れを回想しています。また、月のつれなさと別れた女のつれなさを重ねています。【別れより】「その時から」という意味。 【暁ばかり】「暁」は夜明け前のまだ暗いうちのことです。「ばかり」は後の「なし」と組み合わせて、「~ほど、~なものはない」という意味になります。 【憂きものはなし】「夜明け前ほど、憂鬱な時間はない」という意味になります。
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④現代語訳31~40

三十一番 坂上是則さかのうえのこれのり

朝あさぼらけ
ありあけの月つきと
見みるまでに

吉野よしのの里さとに
降ふれる白雪しらゆき

~ 歌の意味 ~

ほんのりと夜が明けるころ、夜明けの空に残る月かと思うほどに、吉野の里には白雪が降っているではないか。

征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の子孫、坂上好蔭(よしかげ)の子という説があります。大和権少掾(やまとのごんのしょうじょう)などを経て、従五位下・加賀介(かがのすけ)に出世しました。三十六歌仙の一人です。
【朝ぼらけ】夜が明けてきて、ほのかにあたりが明るくなってくる頃。【有明の月】夜明けの空に残って、明るく光っている月。【みるまでに】この「みる」は、「見る」ではなく、「思う」という意味。「まで」で、「思うばかりに」というほどの意味になります。 【吉野の里】吉野は、大和国吉野のあたり一帯。平安時代には、春は桜、冬は雪の名所として知られる山里でした。 【ふれる白雪】雪が降り続いているという意味です。

三十二番 春道列樹はるみちのつらき

山川やまがはに
風かぜのかけたる
しがらみは

流ながれもあへぬ
紅葉もみぢなりけり

~ 歌の意味 ~

山の中を流れる川に、風が架け渡した柵(しがらみ)あります。それは流れることもできない紅葉だったよ。

文章生(大学寮で文章を学ぶ学生。今でいうと大学院の研究者程度か)
【山川】谷川のこと。「やまかわ」と読むと「山と川」という意味になります。 【しがらみ】「柵」と書いて「しがらみ」と読みます。川の流れを堰き止めるために、川の中に杭を打って竹を横に張ったものです。 【流れもあへぬ】 流れようとしても流れきれない、という意味。 【紅葉なりけり】 「紅葉なりけり」の「けり」は、今気づいた、という感動を示す。紅葉を柵(しがらみ)に「見立て」ています。

三十三番 紀友則きのとものり

ひさかたの
光ひかりのどけき
春はるの日ひに

しづ心ごころなく
花はなの散ちるらむ

~ 歌の意味 ~

こんなにも日の光が穏やかな春の日なのに、どうして花は落ち着きもなく散ってしまうのだろう。

「土佐日記」の作者の紀貫之のいとこ。40歳くらいまで無官だったが、その後土佐掾、大内記に昇進しました。古今集の選者で、三十六歌仙の一人。
【ひさかたの】日・月・空などにかかる枕詞です。ここでは「光」にかかっています。 【光のどけき】「日の光が穏やか」という意味です。【静心なく】は「落ち着いた心がなく」という意味で、散る桜の花を人間のように見立てる擬人法を使っています。 【花の】花はもちろん桜のことです。 【散るらむ】「らむ」は「どうして~だろう」という意味です。どうして、心静めずに桜は散っているのだろうか、というような意味になります。

三十四番 藤原興風ふじわらのおきかぜ

誰たれをかも
知しる人ひとにせむ
高砂たかさごの

松まつも昔むかしの
友ともならなくに

~ 歌の意味 ~

私は、これから誰を友達としたらよいのだろう。あの高砂の松(長寿の象徴)も昔からの友ではないのにね。

藤原道成の子供で「古今集」選者の紀貫之らと同時代の人です。三十六歌仙の一人で、勅撰和歌集に38首入集している他、家集として「興風集」があります。管絃にも優れた能力を持っていました。
【誰をかも】「誰をまあ、いったい……だろうか」というような意味です。 【しる人にせむ】「親しい友達としよう」という意味です。 【高砂の松】高砂は播磨国加古郡高砂(現在の兵庫県高砂市南部)の浜辺で松の名所です。 【むかしのともならなくに】「昔からの友達ではないのに」という意味です。

三十五番 紀貫之きのつらゆき

人ひとはいさ
心こころも知しらず
ふるさとは

花はなぞ昔むかしの
香かに匂にほひける

~ 歌の意味 ~

あなたの心は昔のままでしょうか?このふるさとの花は、昔のまま変わらずに、いい香りを匂わせていますが。

平安時代最大の歌人で、「古今集」の中心的な撰者であり、三十六歌仙の一人です。勅撰集には443首選ばれており、定家に次いで第2位でもあります。古今集の歌論として有名なひらがなの序文「仮名序(かなじょ)」と、我が国最初の日記文学「土佐日記」の作者として非常に有名であり、教科書にも取り上げられているのはご存じでしょう。
【人は】贈答歌ですので、「人」は直接には相手のことを指していますが、後の「ふるさと」と対比した、一般的な「人間」という意味も含んでいます。 【いさ心も知らず】は全体では「さあどうだろうか、あなたの気持ちも分かったものではない」という意味になります。 【花ぞ】「花」は普通桜を指しますが、ここでは「梅」です。 【昔の香ににほひける】「にほひ」は「花が美しく咲く」という意味です。

三十六番 清原深養父きよはらのふかやぶ

夏なつの夜よは
まだ宵よひながら
明あけぬるを

雲くものいづこに
月つきやどるらむ

~ 歌の意味 ~

夏の夜は短いですね。まだ、宵だと思っていたら、もう明けようとしている。いったい月は雲のこどあたりに宿っているのでしょう。

百人一首の42番に歌がある清原元輔の祖父で、同じく62番に歌があり「枕草子」の作者でもある清少納言の曽祖父にあたります。あまり昇進しなかった人で、官位は従五位下でした。晩年は洛北に補陀落寺を建て、そこに住んだと言われています。紀貫之や中納言兼輔と親交がありました。
【夏の夜は】「夏の夜というものは」というような区別した意味になります。 【まだ宵(よひ)ながら】「宵(よひ)」は日没からしばらくの間で。「まだ宵のままでいるうちに」というような意味になります。 【明けぬるを】「明けたのだが」という意味。 【雲のいづこに】「どこに?」という意味になります。 【月宿るらむ】「今は見えないが今ごろ~しているだろう」と思っている意味になります。

三十七番 文屋朝康ふんやのあさやす

白露しらつゆに
風かぜの吹ふきしく
秋あきの野のは

つらぬきとめぬ
玉たまぞ散ちりける

~ 歌の意味 ~

草の葉のうえに降りている白露に風がしきりに吹いているさまは、まるで糸を通していない真珠の玉が散り乱れているようだ。

百人一首の22番に歌がある文屋康秀の息子です。あまり高い官職ではありませんでしたが、歌の才能は広く認められており、多くの歌会に参加したようです。
【白露に】 「白露」は、草の葉の上に乗って光っている露、水滴のことです。「白(しら)」は、清らかさを強調する語で、「清祥とした露」というようなイメージです。 【風の吹きしく】「しく」は「しきりに~する」という意味です。全体で「風がしきりに吹いている」という意味になります。 【秋の野は】 【つらぬき留めぬ】「ひもを通して結びつけていない」という意味になります。 【玉ぞ散りける】「玉」は真珠という説が強いです。風に吹き散らされて翔ぶ草の露を、真珠のネックレスの緒がほどけて飛び散った様子に「見立て」ています。

三十八番 右近うこん

忘わすらるる
身みをば思おもはず
誓ちかひてし

人ひとのいのちの
惜をしくもあるかな

~ 歌の意味 ~

あなたに忘れ去られてた私のことは何とも思いませんが、私に愛を誓ったあなたが神の罰を受けて命を落としてしまうことが惜しいのです。

右近少将藤原季縄(すえなわ)の娘。10世紀前半の人で、醍醐天皇の中宮穏子(おんし)に仕えた女房です。「右近」はその女房名です。内裏歌合などに出て活躍し、歌才を謳われました。恋も華やかで、「大和物語」には、藤原敦忠・師輔・朝忠、源順などとの恋愛が描かれています。
【忘らるる】「忘れ去られる」という意味です。 【身をば思はず】「身」は自分自身のことで、全体で「自分自身のことは何とも思わない」という意味。 【誓ひてし】いつまでも君のことは忘れない、と神に誓った、という意味です。 【人の命の】「人」は自分を捨てた相手のこと。 【惜しくもあるかな】「惜し」は(男が神罰を受けて命を落とすので)失うにしのびないという気持ちを表します。

三十九番 参議等さんぎひとし

浅茅生あさぢふの
小野をのの篠原しのはら
しのぶれど

あまりてなどか
人ひとの恋こひしき

~ 歌の意味 ~

まばらに茅(ちがや)が茂っている野原の篠は、じっと忍んでいるのですが、私はもう忍ぶことができずにいます。どうしてこんなにあなたのことが、恋しいのでしょう。

源等。嵯峨天皇のひ孫。947年に参議になりました。
【浅茅生の】まばらに生えている茅(ちがや)のことで、「生(ふ)」は「生えている場所」のことです。 【小野の】「小野」は「野原」のことです。 【篠原】細くて背の低い竹「篠竹」の生えている原っぱのことです。 【忍ぶれど】「しのぶ」とか「がまんする」という意味です。 【あまりてなどか】 「忍ぶ心をがまんできないで」という意味です。「か」がついて「どうしてなのか」という意味になります。

四十番 平兼盛たいらのかねもり

しのぶれど
色いろに出いでにけり
わが恋こひは

物ものや思おもふと
人ひとの問とふまで

~ 歌の意味 ~

じっと忍んできたけれど、貴方のことを思う私の心は、顔色や素振りに出てしまっているようです。「誰に恋してるの」と人に尋ねられるほどに。

光孝天皇のひ孫・篤行王の3男で、臣籍に下って平氏を名乗り従五位上・駿河守となった。後撰集の頃の代表的歌人。赤染衛門の父という説もある。三十六歌仙の一人。
【しのぶれど】人に知られないよう心に秘めてきたけど、の意味です。 【色に出でにけり】「色」は表情のことで、「色に出づ」で恋愛感情が顔つきに出ることを示しています。「けり」は人に言われてはじめて気が付いたことを表しています。 【ものや思ふ】 「もの思ふ」は恋について想いわずらうことを意味しています。 【人の問うまで】他人が尋ねるほどに、の意味です。
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⑤現代語訳41~50

四十一番 壬生忠見みぶのただみ

恋こひすてふ
わが名なはまだき
立たちにけり

人ひと知しれずこそ
思おもひ初そめしか

~ 歌の意味 ~

恋をしているという私のうわさが、早くも広まってしまいました。人に知られないように思い始めたのだけれど。

百人一首にも歌が残る壬生忠岑(みぶのただみね)の子供で、平安時代に栄華を誇った村上天皇の時代に活躍した歌人です。
【恋すてふ】「てふ」は「チョウ」と発音します。「恋しているという」という意味です。 【わが名はまだき】 「名」は世間の噂や評判を意味しています。「まだき」は「早くも」という意味。「私の噂がもう」という意味になります。 【立ちにけり】「立ってしまっていた」という意味でここまでで「恋しているという私の噂が早くも立ってしまっていた」という意味になります。 【人知れずこそ思ひそめしか】「恋はまだはじまったばかり」という意味です。「しか」は「…だけれども」という逆接になります。よって全体で「他人に知られないよう、密かに思いはじめたばかりなのに」という意味です。/div>

四十二番 清原元輔きよはらのもとすけ

契ちぎりきな
かたみに袖そでを
しぼりつつ

末すゑの松山まつやま
波なみ越こさじとは

~ 歌の意味 ~

約束しましたよね。涙でぬれた袖を互いに絞りながら、末の松山を波が越すことがないように、消して心が変わらないということを。

清原深養父の孫で清少納言の父にあたります。平安中期に活躍した大歌人「梨壺(なしつぼ)の五人」の一人として有名で、五人で「万葉集」を現在のような20巻本の形に整えた訓点打ちの作業や、村上天皇の命による「後撰集」の編纂を行っています。ちなみに「梨壺」とは、宮中の梨壺に和歌所が置かれていたことからの命名で、清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城を指しています。
【契りきな】「(恋の)約束をする」という意味。「約束したものでしたよね」と過去を感動的に回想しています。 【かたみに】で「お互いに」という意味です。 【袖をしぼりつつ】は「泣き濡れる」という意味で、涙を拭いた袖がしぼらねばならないほどぐっしょり濡れた、という意味合いです。大げさに思えますが、平安時代の歌によく使われる表現です。「つつ」は繰り返しを表す接続詞です。 【末の松山】現在の宮城県多賀城市周辺です。 【波越さじとは】末の松山はどんな大きな波でも越せないことから、永遠を表す表現、「2人の間に心変わりがなく永遠に愛し続ける」ことを表しています。

四十三番 権中納言敦忠ごんちゅうなごんあつただ

あひ見みての
のちの心こころに
くらぶれば

昔むかしは物ものを
思おもはざりけり

~ 歌の意味 ~

あなたに逢って、エッチをした後の私の心は、もう、それ以前にあなたに逢いたいと思っていた時の心などなかったもののようですよ。

藤原敦忠 左大臣時平の3男で、母は在原業平の孫です。参議などを経て権中納言となりましたが、琵琶の名手でしたので権中納言と呼ばれました。恋多き人で、大和物語などからも彼の生き方を知ることができます。
【逢ひ見ての】「逢ふ」も「見る」も、男女が逢瀬を遂げたり、契りを結ぶ意味で使われる動詞です。 【のちの心】逢瀬を遂げた後の気持ちです。今現在の心のことですね。 【くらぶれば】「比べると」の意味。 【昔】逢瀬を遂げる前のことを表します。 【ものを思はざりけり】恋のもの想いをする意味です。逢瀬を遂げる前の恋心なんて軽いものだということに、今はじめて気付いたという感動を表しています。

四十四番 中納言朝忠ちゅうなごんあさただ

あふことの
たえてしなくは
なかなかに

人ひとをも身みをも
恨うらみざらまし

~ 歌の意味 ~

逢うことが全くなかったのなら、貴方のつれなさも、わが身の不幸も恨むことはないのに。

藤原朝忠 三条右大臣定方の5男。笙(しょう)の名手だったという。「大和物語」などにあるが、恋愛遍歴が豊かで、百人一首に登場する右近も恋人の一人でした。
【逢ふこと】男女の逢瀬のことです。 【絶えてしなくは】「絶対に~しない」を表します。【なかなかに】「かえって」とか「なまじっか」という意味で、物事が中途半端なので、むしろ現状とは反対の方がよいという感じを表しています。 【人をも身をも】「人」は相手のことで、「身」は自分のことです。「相手の不実をも、自分の辛い運命も」という意味になります。 【恨みざらまし】「恨むことはしないだろうに」という意味。

四十五番 謙徳公けんとくこう

あはれとも
いふべき人ひとは
思おもほえで

身みのいたづらに
なりぬべきかな

~ 歌の意味 ~

私のことを哀れと思ってくる人など、いそうもありません。私はむなしく死んでいくのでしょうね。

生前の名前を藤原伊尹(これただ)といい、右大臣師輔の長男です。娘が冷泉天皇の女御となり、花山天皇の母となったため、晩年は摂政・太政大臣にまで昇進しました。自邸が一条にあったので「一条摂政」と呼ばれます。和歌所の別当として、当時の和歌の名手を集めた梨壺の五人(清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城)を率いて、後撰集の選定に関わりました。才色兼備の貴公子だったようです。建徳公はおくり名です。
【あはれとも】「あはれ」は「かわいそう」「気の毒に」などの意味の感動詞。 【いふべき人は】全体で「言ってくれそうな最愛の人は」という意味です。 【思ほえで】で「思い浮かばず」という意味になります。 【身のいたづらに】「いたづら」は「はかない」とか「無駄だ」という意味で、「身を無駄にする」→「死ぬ」ことを意味します。しかもむなしい死に方です。 【なりぬべきかな】全体で「なってしまうのだろうなあ」という意味になります。

四十六番 曾禰好忠そねのよしただ

由良ゆらのとを
渡わたる舟人ふなびと
かぢを絶たえ

ゆくへも知しらぬ
恋こひの道みちかな

~ 歌の意味 ~

由良の海峡を漕ぎ渡る船人が櫂をなくしてしまったように、どこへ漂っていくのかわからない私の恋であることよ。

花山天皇時代の歌人で、丹後掾(たんごのじょう)だったため、「曽丹(そたん)」とか「曽丹後(そたんご)」と呼ばれていました。斬新な歌で知られ、歌の才能を高く評価されていましたが、性格が偏屈で奇行が多く、社会的には不遇でした。
【由良の門】由良は丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川の河口です。「門(と)」は、海峡や瀬戸、水流の寄せ引く口の意味で、河口で川と海が出会う潮目で、潮の流れが激しい場所です。 【舟人】船頭さんのことです。 【かぢをたえ】「かぢ」は、櫓(ろ)や櫂(かい)のように舟を操る道具のことで、船の方向を変える現在の「舵(かじ)」とは異なります。「たえ」は「なくなる」という意味です。 【行くへも知らぬ】「行く末が分からない」という意味になります。 【恋の道かな】「道」は、これからの恋のなりゆきを意味します。

四十七番 恵慶法師えぎょうほうし

八重やへむぐら
しげれる宿やどの
さびしきに

人ひとこそ見みえね
秋あきは来きにけり

~ 歌の意味 ~

いろいろな雑草が生い茂るほどの寂しい宿に、訪れる人など誰もいないけど、秋だけはここにもやってくるのだなあ。

播磨国の講師(こうじ=国の僧侶らの監督)だったらしい。清原元輔、大仲臣能宣、平兼盛らの一流歌人と親交を結んでいた。
【八重葎】「葎(むぐら)」は、つる状の雑草の総称。「八重」は幾重にも重なることで、つる草が重なってはびこっている状態。「八重葎」は、家などが荒れ果てた姿を表すときに、象徴的に使われる言葉です。 【しげれる宿】「宿」は和歌独特の言い回しで、家のことです。草ぼうぼうの荒れ果てた家のことを表しています。 【人こそ見えね】「ね」は、打ち消しの助動詞「ず」の已然形。「こそ~ね」で逆接の文章を作ります。「人は見あたらないけれども」の意味。【秋は来にけり】「秋はここにも来るんだな~」という感動を示しています。

四十八番 源重之みなもとのしげゆき

風かぜをいたみ
岩いはうつ波なみの
おのれのみ

くだけて物ものを
思おもふころかな

~ 歌の意味 ~

風が強く、岩に打ち付ける波が砕けるように、恋に悩む私の心も砕ける程に思い悩んでいるこのころです。

清和天皇の曾孫で三十六歌仙の独りです。冷泉天皇の時代に活躍し、天皇の東宮時代に帯刀先生(たちはきのせんじょう)、即位後は右近将監から相模権守(さがみのごんのかみ)に出世しました。
【風をいたみ】「いたみ」は「はなはだしい」という意味。「風が激しいので」という意味になります。 【岩うつ波の】「岩に打ち当たる波の」という意味。 【おのれのみ】「自分だけ」という意味です。 【砕けて】「くだけ」は、微動だにしない岩にぶつかって砕ける波と、振り向いてくれない女性に対して思いを砕く自分、という意味を重ねています。 【ものを思ふころかな】「物事を思い悩んでいるこの頃だなあ」という意味になります。

四十九番 大中臣能宣朝臣おおなかとみのよしのぶあそん

みかきもり
衛士ゑじのたく火ひの
夜よるは燃もえ

昼ひるは消きえつつ
物ものをこそ思おもへ

~ 歌の意味 ~

宮中の御門を守る兵士の焚く火が夜は燃え、昼は消えているように、私の心も夜は燃え、昼は消えるように物思いに悩んでいるのです。

百人一首にも歌がある伊勢大輔の祖父。950年代に清原元輔、源順、紀時文(ときぶみ)、坂上望城(もちき)とともに「梨壺の五人」として活躍しました。「梨壺の五人」とは、宮中の撰和歌所で万葉集の訓読や後撰集の撰定に当たった和歌の学者たち5人を指す言葉。内裏後宮五舎のひとつで庭に梨の木のある「梨壺(昭陽舎)」に和歌所があったのでこう呼ばれました。
【御垣守】宮中の諸門を警護する者のことです。【衛士の焚く火の】「衛士」は交替で諸国から招集される兵士のことで、ここでは御垣守を指しています。夜は篝火を焚いて門を守ります。「焚く火」とは、その篝火のこと。【夜は燃え 昼は消えつつ】衛士の焚く篝火が、夜は燃えて昼は消える、ということを対句として表現しており、同時に「夜は恋心に身を焦がし、昼は意気消沈して物思いにふける」という自分の心を重ねて表現しています。 【ものをこそ思へ】「恋をしてもの思いにふける」という意味。

五十番 藤原義孝ふじわらのよしたか

君きみがため
惜をしからざりし
命いのちさへ

長ながくもがなと
思おもひけるかな

~ 歌の意味 ~

君のためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命なのに、いまは、長く有ってほしいと思うようになりました。

謙徳公伊尹の三男で、18歳で正五位下・右少将になりました。「末の世にもさるべき人や出でおはしましがたからむ(今後もこのような人は現れないだろう)」と言われるほどの美男で人柄も良かったのですが、痘瘡(天然痘)にかかってわずか21歳の若さで死去しました。
【君がため】「あなたと逢うために」、という気持ちを表しています。 【惜しからざりし】捨てても「惜しいとは思わなかった」の意味です。 【命さへ】「命までも」という意味になります。 【長くもがな】「長くあってほしい」という意味。あなたと長く逢いつづけていたい、という意味を含んでいます。 【思ひけるかな】逢瀬を遂げた時から変わってきた気持ちに、今はじめて気が付いたということを意味しています。
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⑥現代語訳51~60

五十一番 藤原實方朝臣ふじわらのさねかたあそん

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草ぐさ

さしも知しらじな
もゆる思おもひを

~ 歌の意味 ~

こんなにもあなたを慕っているのに口に出して言うことさえできず、伊吹山のさしも草のように私の恋心は燃えています。この燃える思いをあなたは知らないでしょうね。

貞信公・忠平のひ孫。宮廷では花形で、清少納言との恋などで有名です。しかし、清涼殿の殿上で藤原行成といさかいを起こし、狼藉の罪で陸奥守に左遷、任地で逝去しました。いさかいの原因は、実方の自信作「桜がり 雨は降り来ぬ 同じくば 濡るとも花の かげに宿らむ」を行成がなじったため、怒って冠をはたき落としたためという伝説があります。
【かくとだに】「かく」は「このように」、「だに」は「~すら」を意味します。「このように(あなたをお慕いしていると)さえも」という意味を示します。 【えやは伊吹の】「やは」は不可能の意味を表します。「えやは~いふ」で「言うことができない」となりますが、「いふ」を「伊吹(いぶき)」と掛ける掛詞になっています。「伊吹山」は、美濃国と近江国の国境にある山です。 【さしも草】ヨモギのことで、お灸に使うもぐさの原料になります。伊吹山の名物です。 【さしもしらじな】「これほどまでとはご存知ないでしょう」という意味です。 【燃ゆる思ひを】そのまま「燃えるようなこの想いを」という意味です。

五十二番 藤原道信朝臣ふじわらのみちのぶあそん

明あけぬれば
暮くるるものとは
知しりながら

なほうらめしき
朝あさぼらけかな

~ 歌の意味 ~

夜が明けあなたとお別れしても、また日が暮れあなたに逢うことができます。それなのにやはりあなたとお別れする夜明けは恨めしいものです。

法住寺太政大臣・藤原為光の3男で、藤原兼家(かねいえ)の養子となり従四位上・左近中将にまで昇進しました。大鏡には「いみじき和歌の上手」とあり、和歌の才能を嘱望されていましたが、22歳の若さで夭折しました。父の為光の死後には「限りあれば今日ぬぎすてつ藤衣 はてなきものは涙なりけり」と悲しみの深さを表す名歌を詠み、賞賛されています。
【明けぬれば】「夜が明けてしまえば」の意味です。【暮るるものとは】「日は必ず暮れて(またあなたと逢える)」の意味です。【知りながら】「(心では)分かっているものの」という意味。 【なほ】「そうは言うものやはり」の意味。【朝ぼらけ】「辺りがほのぼのと明るくなってきた頃」の意味です。

五十三番 右大将道綱母うだいしょうみちつなのはは

嘆なげきつつ
ひとり寝ぬる夜よの
明あくるまは

いかに久ひさしき
ものとかは知しる

~ 歌の意味 ~

嘆きながら一人で寝る夜は、夜が明けるのがどれほど長く感じられるでしょう。そんな気持ちをあなたはご存じないでしょうね。

陸奥守、藤原倫寧(ともやす)の娘。本朝三美人に選ばれるほどの美貌で、天暦8(954)年に藤原兼家の第2に藤原兼家の第2夫人となり藤原道綱を産みました。兼家は浮気性の人だったようで、幸せな時間は短かったようですが、その半生を綴ったのが「蜻蛉(かげろう)日記」です。
【嘆きつつ】何度も嘆いてため息をつく様子を表します。 【ひとり寝る夜】平安時代は男が女性の家に通う通い婚が慣習でしたので、「ひとり寝る夜」というのは、夫の来訪がなく孤独に寝る夜のことです。 【明くる間は】「夜が明けるまでの間は」という意味です。 【いかに久しきものとかは知る】「いかに」は程度がはなはだしいことを表す。全体で「どんなに長いものか知っておられるでしょうか?」という意味になります。

五十四番 儀同三司母ぎどうさんしのはは

忘わすれじの
行ゆく末すゑまでは
かたければ

今日けふをかぎりの
命いのちともがな

~ 歌の意味 ~

「決して忘れない」とあなたは言うけれど、将来まで心変わりをしないことなど難しいでしょう。 いっそのこと、今日死んでしまえばいいのに。

従二位式部卿高階成忠(なりただ)の娘で、名前を貴子(たかこ)と言い、高内侍(こうのないし)とも呼ばれました。中関白藤原道隆の妻となり、儀同三司伊周(これちか)や一条天皇の后・定子を生みました。儀同三司は准大臣のことで、三司(太政大臣・左大臣・右大臣)と儀が同じという意味です。夫の死後、出家しましたが、伊周が失脚したため、晩年は不遇でした。
【忘れじの】「忘れじ」は、「いつまでもあなたを忘れない」という男の言葉です。 【行く末までは】「将来いつまでも変わらないことは」という意味になります。 【難ければ】「難しいので」という意味です。【今日を限りの】「今日を最後に(死ぬ命)」という意味になります。 【命ともがな】「命であればよいなあ」という意味になります。

五十五番 大納言公任だいなごんきんとう

滝たきの音おとは
絶たえて久ひさしく
なりぬれど

名なこそ流ながれて
なほ聞きこえけれ

~ 歌の意味 ~

滝の音が聞こえなくなって、もう久しくなりました。それでもその名声は今でも人づてに聞くことができるのです。

藤原公任 関白太政大臣頼忠の子供で、四条大納言と呼ばれました。非常に博学多才で、作文・和歌・管絃をよくする「三船(さんせん)」の才を兼ね備えていたといわれます。「和漢朗詠集」の編者です。
【滝の音は】滝の流れ落ちる水音は【絶えて久しくなりぬれど】「聞こえなくなって長くたつけれど」という意味を表しています。 【名こそ】「名」は名声や評判のこと。【流れて】 流れ伝わって、という意味を表します。【なほ聞こえけれ】「それでもやはり」。

五十六番 和泉式部いずみしきぶ

あらざらむ
この世よのほかの
思おもひ出でに

今いまひとたびの
逢あふこともがな

~ 歌の意味 ~

死ぬ前に、もう一度あなたに抱かれたいワ!

越前守大江雅致(おおえまさむね)の娘。最初の夫が和泉守・橘道貞だったので、和泉式部の名前で呼ばれるようになりました。このとき生んだ娘が、百人一首にも登場する小式部内侍です。平安時代の代表的歌人で、自分の恋愛遍歴を記した「和泉式部日記」は時代を代表する日記文学となっています。和泉式部は恋多き女性で、道貞と数年後破局した後、為尊(ためたか)親王、その弟・敦道(あつみち)親王と結ばれ、さらに2人の死後、一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原保昌(やすまさ)とも結婚します。晩年は消息不明です。
【あらざらむ】「あら」は「生きている」という意味です。「む」がついて「生きていないであろう」という意味になります。 【この世のほかの】「この世」とは「現世」という意味ですので、「この世の外」は現世の外の世界、つまり死後の世界ということになります。 【逢ふこともがな】 「逢ふ」は、男女が逢い一夜を過ごすことで、「もがな」は願望で「~であったらなあ」と、実現が難しい希望を語ります。

五十七番 紫式部むらさきしきぶ

めぐりあひて
見みしやそれとも
分わかぬまに

雲くもがくれにし
夜半よはの月つきかな

~ 歌の意味 ~

え~!もう帰ってしまうの。これじゃ~、すぐに隠れてしまう夜中の月みたいだわ。

文章生(当時の文学研究者)出身の藤原為時の娘。大弐三位の母。夫に先立たれた後、一条天皇の中宮彰子に出仕。その傍ら「源氏物語」五十四帖や「紫式部日記」を記した。
【めぐり逢ひて】月に託して、幼友達と巡り逢ったことを言っています。 【見しやそれとも】見たのが「それ」かどうかも、意味。「それ」は表向きは月のことですが、友達のことを指しています。 【わかぬ間に】見分けがつかないうちに、という意味です。 【雲隠れにし】 月が雲に隠れてしまったことですが、友達が見えなくなってしまったことも含んでいます。 【夜半の月かな】「夜半」は夜中。

五十八番 大貳三位だいにのさんみ

ありま山やま
ゐなの笹原ささはら
風かぜ吹ふけば

いでそよ人ひとを
忘わすれやはする

~ 歌の意味 ~

有間山の猪名というところの笹の葉の原っぱに風が吹くと、そよそよと音がしますが、そうよ、私はあなたのことを忘れられないよ。

紫式部の娘、藤原賢子(かたこ)のこと。母の紫式部同様、一条天皇の中宮彰子に仕え、越後弁(えちごのべん)と呼ばれていた。16歳の時に母は他界、その後藤原兼隆の妻となった。後に後冷泉天皇の乳母(めのと)となり、30代半ばに太宰大弐正三位・高階成章(たかしなのしげあきら)と結婚したので、大弐三位と呼ばれました。
【有馬山】摂津の国・有馬郡ある山です。 【猪名の笹原】有馬山の南東にあたる、摂津の国猪名川に沿った平地。現在の兵庫県尼崎市・伊丹市・川西市あたり。 【いでそよ】「いで」は「いやはや、まったく」などの意味の。「そよ」は笹がたてるさらさらという葉ずれの音を示すとともに「そうよ」だとか「そうなのよ!」などの意味もあります。 【人を忘れやはする】「人」はこの場合、相手の男のこと。どうしてあなた(人)を忘れることができるでしょう、というような意味です。

五十九番 赤染衛門あかぞめえもん

やすらはで
寝ねなましものを
さ夜よ更ふけて

かたぶくまでの
月つきを見みしかな

~ 歌の意味 ~

バカらしいワ!寝てればよかった。月を見ながら夜が明けるまであなたを待っていたのに。

和泉式部と並ぶ才媛と言われ、藤原道長の繁栄を描いた「栄花物語」正編の作者として有力視されています。赤染時用(ときもち)の娘と言われていますが、実の父は平兼盛とも言われます。衛門は父の官名からとられています。文章博士の大江匡衡(まさひら)と結婚し、2人の子供を産みました。曾孫は百人一首73番を作った大江匡房(まさふさ)です。藤原道長の妻・鷹司殿倫子(たかつかさどのりんし)と、その娘の中宮彰子に仕えました。夫の死後は尼僧となり、85歳以上まで生きました。
【やすらはで】「やすらふ」は「ためらう」という意味になります。 【寝なましものを】現実には起こらなかったことを、もし起こればと想像すること。ここでは「もしあなたが来ないことが分かっていたら」「寝てしまっただろうに」と言っています。 【さ夜ふけて】「夜は更けて」という意味。 【傾くまでの】月が西の山に傾くこと。「月が西に沈むまでの」という意味になります。 【月を見しかな】「月を見たことですよ」という意味になります。

六十番 小式部内侍こしきぶのないし

大江山おほえやま
いく野のの道みちの
遠とほければ

まだふみも見みず
天あまの橋立はしだて

~ 歌の意味 ~

大江山を越えて、生野を超えていかなければならない丹後の地は遠すぎて、あの有名な天橋立にも行ったことがない私!そんな遠いところにいる母からの手紙もまだ一度も届いていないのよ。悲しいでしょ!

橘道貞(みちさだ)の娘で、母親は和泉式部(「和泉式部日記」で有名。百人一首56番に収載)。一条天皇の中宮彰子に仕えました。幼少時から才気を謳われ、この歌をめぐる定頼とのエピソードは非常に有名で、多くの説話集に収められています。若くして逝去しました。
【大江山】丹波国(現在の京都府西北部)の山。鬼退治で有名な丹後の大江山とは別。 【いく野の道】生野は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市字生野)にある地名で、丹後へ行くには生野の里を通りました。この「いく野」には「野を行く」の「行く」を掛けています。 【遠ければ】遠いので、という意味です。【まだふみも見ず】「ふみ」に「踏み」と「文(ふみ)」掛詞(かけことば)です。行ったこともないし、母からの手紙もまだ見てはいない、ということを重ねて表しています。 【天の橋立】丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、日本三景のひとつです。
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⑦現代語訳61~70

六十一番 伊勢大輔いせのたいふ

いにしへの
奈良ならの都みやこの
八重桜やへざくら

けふ九重ここのへに
にほひぬるかな

~ 歌の意味 ~

(ここは京の都)むかし栄えていた奈良の都に咲いていた八重桜が、今は宮中で咲き誇っているではありませんか。(だから何?)

中宮定子のいとこ・高階成順(なりのぶ)と結婚し、勅撰歌人の康資王母などを産みました。上東門院彰子に仕え、紫式部や和泉式部とも親しい間柄でした。
【いにしへの奈良の都】「いにしへ」は「古き遠い時代」の意味。 【八重桜】この歌は当時京都では珍しかった八重桜が奈良から京都の宮中へ献上されるときに歌われたものです。 【けふ】「今日」という意味で。 【九重に】「宮中」の意味で、昔中国で王宮を九重の門で囲ったことからこう言われています。「八重桜」に照応した言葉です。 【にほひぬるかな】「色美しく咲く」の意味で、見た目の美しさを表します。

六十二番 清少納言せいしょうなごん

夜よをこめて
鳥とりのそらねは
はかるとも

よに逢坂あふさかの
関せきはゆるさじ

~ 歌の意味 ~

夜が明けないうちにコケコッコーとニワトリのなき真似をして、私の家の戸を開けさせようとしてるでしょ。中国の関所で有名な函谷関はニワトリが鳴けば門を開けるらしいけど、私とあなたの間にある逢坂の関は騙せませんよ。

百人一首36番の清原深養父のひ孫で、42番の清原元輔の娘です。学者の家に生まれ、子供の頃から天才ぶりを発揮し、橘則光との離婚後、一条天皇の皇后定子に仕えました。ご存じの通り、名エッセイ「枕草子」を書いた才女です。
【夜をこめて】「夜がまだ明けないうちに」という意味になります。 【鳥の空音は】「鳥」は「にわとり」で、「空音」は「鳴き真似」のことです。 【謀(はか)るとも】「はかる」は「だます」という意味になります。 【よに逢坂の関は許さじ】「よに」は「決して」という意味です。「逢坂の関」は男女が夜に逢って過ごす「逢ふ」と意味を掛けた掛詞です。「逢坂の関を通るのは許さない」という表の意味と「あなたが逢いに来るのは許さない」という意味を掛けています。

六十三番 左京大夫道雅さきょうのだいぶみちまさ

今いまはただ
思おもひ絶たえなむ
とばかりを

人ひとづてならで
言いふよしもがな

~ 歌の意味 ~

もうダメだね。あなたのことは諦めます。せめて直接逢って伝えたいんだけど、ダメかな?(しつこくしてゴメンね!)

藤原道雅。関白藤原道隆の孫で内大臣・藤原伊周の息子です。幼い頃に父親が失脚、さらに24~5歳の頃にこの歌に描かれた恋愛事件によって三条院の怒りを買い、生涯不遇でした。従三位左京太夫となりましたが、『小右記』によれば、法師隆範を使って花山院女王を殺させたり、敦明親王雑色長を凌辱したりと乱行の噂が絶えなかったようで「悪三位」の呼称があります。
【今はただ】「今となってはもう」という意味です。 【思ひ絶えなむ】「想いをあきらめてしまおう」という意味です。 【とばかりを】「…ということだけを」という意味になります。 【人づてならで】「直接に」「人を間に立てずに」という意味になります。 【言ふよしもがな】「よし」は「方法」や「手段」のことで、「もがな」は願望を表す終助詞です。

六十四番 権中納言定頼ごんちゅうなごんさだより

朝あさぼらけ
宇治うぢの川霧かはぎり
たえだえに

あらはれわたる
瀬々せぜの網代木あじろぎ

~ 歌の意味 ~

夜が明けると、宇治川に立ち込める霧が少しずつ晴れてきた。すると、徐々に浅瀬に仕掛けられた魚を捕る仕掛けが見えてきたよ。(だから~。)

藤原定頼。四条大納言公任(百人一首55番に収載)の長男。書や管弦が上手い趣味人で、正二位権中納言にまでなった。百人一首60番の小式部内侍の歌は、定頼にからかわれた内侍が詠んでへこましたもの。
【朝ぼらけ】夜明け、あたりがほのぼのと明るくなる頃。 【宇治の川霧】宇治川は京都南部を流れる川。琵琶湖の南から流れはじめる瀬田川の下流、京都府に入る手前から桂川・木津川と合流して淀川となる大山崎の辺りまでをいいます。【たえだえに】とぎれとぎれに。この場合は、川霧がきれぎれに薄れていき、晴れてくる様子を表しています。 【あらはれわたる】あちこちに表れてくる、という意味。 【瀬々の】瀬は川の浅いところの意味です。 【網代木(あじろぎ)】 「網代」は、冬に氷魚(鮎の稚魚のこと)を取る仕掛けです。

六十五番 相模さがみ

恨うらみわび
ほさぬ袖そでだに
あるものを

恋こひにくちなむ
名なこそ惜をしけれ

~ 歌の意味 ~

冷たい人ね。恨むわよ。毎日泣いて私の袖は乾く暇もないわ。あなたとのことで、尻軽女と思われるのは本当に悔しいわ!

源頼光の娘、もしくは養女と言われます。相模守の大江公資の妻となり任国へ一緒に行ったので、相模と呼ばれるようになりました。歌論集「八雲御抄」では赤染衛門、紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。しかし実生活では悩みが多く、公資と別れた後、権中納言藤原定頼や源資道(すけみち)と恋愛しましたが上手くいきませんでした。一条天皇の第一皇女、脩子内(しゅうしない)親王の女房となり、歌人としての評価を固めました。
【恨みわび】「恨む気力も失って」という意味です。 【ほさぬ袖だに】「ほさぬ袖」は、いつも泣いて涙を拭いているので「乾くひまもない袖」という意味です。「だに」は「~でさえ」のような意味で、程度の軽いものを示して、重いものを類推させます。 【あるものを】「袖が朽ちるのさえ悔しいのだから」と、後で恋で悪い噂が立つことと比較しています。 【恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ】「名」は「評判」の意味で「失恋の噂で汚れてしまいそうな私の評判がとても残念だ」という意味になります。

六十六番 前大僧正行尊さきのだいそうじょうぎょうそん

もろともに
あはれと思おもへ
山桜やまざくら

花はなよりほかに
知しる人ひともなし

~ 歌の意味 ~

山桜よ。私があなたを愛おしく思うように、あなたも私のことを愛おしく思っておくれ。こんな山奥ではお前の他に知る人もいないのだから。

敦明親王の孫で参議従二位源基平の息子です。10歳で父を亡くし12歳で出家、円城寺で密教を学んだ後に大峰や熊野などで厳しい修行を行いました。1107年に鳥羽天皇の即位とともに護持僧に選ばれ、その後歴代の天皇の病気を祈祷で治したりして、「験力無双」と誉めそやされています。その後は円城寺の大僧正となり、81歳で亡くなるまで歌人としても名声を得ました。
【もろともに】「一緒に」という意味。【あはれと思へ 山桜】「あはれ」は「愛しい」「いつくしい」という意味の感動を表します。山桜を人のように疑人化し、「一緒に愛しいと思っておくれ」と呼びかけています。 【知る人もなし】「自分を理解してくれる人」のことを指します。

六十七番 周防内侍すおうのないし

春はるの夜よの
夢ゆめばかりなる
手枕たまくらに

かひなく立たたむ
名なこそ惜をしけれ

~ 歌の意味 ~

春の夜のようなほんの少しの間でも、あなたのうでまくらなどしたら、噂が立ってしまうでしょ。だからイヤヨ!

周防守・平棟仲の娘で後冷泉、後三条、白河、堀河天皇に女房として仕えました。本名は仲子(ちゅうし)です。女房三十六歌仙のひとりで「周防内侍集」を残しました。出家後の1109年頃、70数歳で病のため亡くなったとされています。
【春の夜の夢ばかりなる】「春の夜」は短くすぐ明けてしまうはかないもの、というイメージがあり、「夢」もまたはかないものと考えられています。全体で「短い春の夜の夢のようにはかない」という意味になります。 【手枕(たまくら)に】「手枕」とは、腕を枕にすることで、男女が一夜を過ごした相手にしてあげます。 【かひなく立たむ】「かひなく」は「何にもならない」「つまらない」という意味になります。また「手枕」にする「腕(かひな)」が掛詞として入っています。「立たむ」は「噂が立ったら」というような意味になります。 【名こそ惜しけれ】 「名」は「評判」や「浮き名」のことで、全体で「浮き名や噂が立ったら、口惜しいではありませんか」という意味になります。

六十八番 三条院さんじょういん

心こころにも
あらでうき世よに
ながらへば

恋こひしかるべき
夜半よはの月つきかな

~ 歌の意味 ~

心にもなく、このはかない世を生きながらえたなら、今夜の月も、きっと恋しく思い出されることでしょう。きっと、いいことがあるよ。頑張ろう。

冷泉天皇の第2皇子・居貞(いやさだ)親王のこと。986年に皇太子となり、25年も天皇の位を待ち、1011年に即位しましたが、病弱で在位6年で次の天皇に位を譲り、翌年に死去しました。短い在位でしたが、その間に2回も内裏が火事になり、しかも藤原道長が前の天皇の一条院と自分の娘・彰子(しょうし)との間にできた皇子を即位させようと、退位をせまったため、その生涯は苦難の連続でした。
【心にもあらで】「心ならずも」とか「自分の本意ではなく」などという意味です。「心にも あらでうき世に ながらへば」とあるので、本心では早くこの世を去りたいと思っていることを表しています。 【うき世】「現世」のことで、「つらいこの世の中で」というような意味になっています。 【ながらへば】「これから長く生きているとすれば」という未来のことを想像する内容になっています。 【恋しかるべき】「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、「夜半の月」にかかります。 【夜半の月かな】全体では「この夜更けの月のことがなあ」という意味になります。

六十九番 能因法師のういんほうし

あらし吹ふく
み室むろの山やまの
もみぢ葉ばは

竜田たつたの川かはの
錦にしきなりけり

~ 歌の意味 ~

嵐吹が吹く三室の山の紅葉で、竜田川の川面は錦のように美しいな。(だから何!)

俗名は橘永★(たちばなのながやす。★はりっしんべんに豈)といいました。大学で詩歌を学び文章生となりましたが、26歳の時に出家します。最初の法名は「融因」でした。摂津国古曾部(こそべ。今の大阪府高槻市)で生まれ、そこで住んだので「古曾部入道」などとも呼ばれます。東北や中国地方、四国などの歌枕を旅した漂泊の歌人でもあります。
【嵐吹く】「嵐」は山から吹き下ろす強い風のことを表します。 【三室の山のもみぢ葉は】大和国にあった神奈備山(かむなびやま)のことで「三諸(みもろ)の山」とも言います。神奈備山は現在でも紅葉の名所です。 【竜田の川の】大和国を流れる川で、三室山の東のふもとを通って大和川に合流します。 【錦なりけり】錦は五色の色糸を使って絢爛豪華な模様を描き出した織物です。

七十番 良暹法師りょうぜんほうし

さびしさに
宿やどをたち出いでて
ながむれば

いづこも同おなじ
秋あきの夕ゆふ暮ぐれ

~ 歌の意味 ~

あまりにも寂しくて、家を出てあたりを眺めてみたけど、どこも同じに寂しいね。秋の夕暮れ時は。

比叡山の僧侶で祇園の別当であり、晩年は洛北大原の雲林院に隠棲したと言われます。
【寂しさに】平安時代の「寂しさ」は、秋や冬の寂寞とした感じを表します。特に一人住まいや無人の荒れ果てた家や野山など、あまり人がいない場所の寂しさを示しています。全体で「さびしさのせいで」という意味になります。 【宿を立ち出でて】「庵を出て」という意味になります。 【眺むれば】「いろいろな思いにふけりながらじっと長い間見ている」というニュアンスがあります。 【いづこも同じ秋の夕暮れ】「どこも同じように寂しい秋の夕暮れがひろがっていた」という意味です。
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⑧現代語訳71~80

七十一番 大納言経信だいなごんつねのぶ

夕ゆふされば
門田かどたの稲葉いなば
おとづれて

葦あしのまろやに
秋風あきかぜぞ吹ふく

~ 歌の意味 ~

夕方になると、門の前にある田んぼの稲の葉を揺らし、蘆葺きのそまつなこの住家にも秋風がふいてきた。

源経信 正二位大納言にまで昇進したので、大納言経信とも呼ばれます。詩歌や管弦(楽器の演奏)が得意で、朝廷の礼式や作法などの「有職(ゆうそく)」に関して深い知識を持っていました。
【夕されば】「夕方になると」という意味になります。 【門田(かどた)の稲葉】「門田」は門の真ん前の田圃のこと。家に近くて仕事がしやすく一番大事にされました。 【おとづれて】動詞「おとづる」は「訪れる」という意味もありますが、元々は「声や音を立てる」という意味。 【芦のまろや】「屋根が芦葺きの、粗末な仮住まいの小屋」という意味ですが、源師賢の別荘のことを言っています。 【秋風ぞ吹く】「秋風が吹き渡ってくる」という意味です。

七十二番 祐子内親王家紀伊ゆうしないしんのうけのき

音おとにきく
たかしの浜はまの
あだ波なみは

かけじや袖そでの
ぬれもこそすれ

~ 歌の意味 ~

あの高師の浜の波のように、あなたのプレイボーイだという噂は聞いていますよ。だから泣かされないようにあなたの言葉などは気にかけないようにしましょう。

平経方の娘で、藤原重経の妻。母親は後朱雀天皇の第一皇女・祐子内親王に仕えた小弁(こべん)で、紀伊自らも祐子内親王家に仕えました。紀伊の名前は、藤原重経が紀伊守だったところからきています。
【音に聞く】「音」はここでは「評判」のことで、「噂に名高い」という意味です。 【高師の浜】和泉国の浜です。ここでは「高師」に「高し」を掛けた掛詞とし、「評判が高い」を意味させています。 【あだ波】むなしく寄せ返す波のことですが、ここでは浮気な人の誘い言葉のことを暗に言っています。 【かけじや】「波をかけまい」と「想いをかけまい」の二重の意味を込めています。 【袖のぬれもこそすれ】「袖が濡れる」というのは、涙を流して袖が濡れるという意味があり、恋愛の歌でよく使われます。恋する想いが嵩じて涙を流すということですね。ここでは、波で袖が濡れるのと、涙で袖が濡れることを掛けています。不安を意味します。

七十三番 権中納言匡房ごんちゅうなごんまさふさ

高砂たかさごの
をのへの桜さくら
咲さきにけり

外山とやまのかすみ
立たたずもあらなむ

~ 歌の意味 ~

向こうの山の頂の桜が咲いたな。こっちの山の霞は立たないでほしい。見えなくなっちゃうから。

本名・大江匡房(まさふさ)で、大江匡衡(まさひら)と赤染衛門夫婦のひ孫です。平安時代を代表する学識者で、幼い頃から神童の呼び声高く、菅原道真と比較されました。16歳で文章生となり、後三条天皇らに仕え権中納言まで出世しました。和歌や漢詩の他、「狐媚記」「傀儡子記」「本朝神仙伝」などの奇書も多数残しています。
【高砂の】「高砂」は、「高い山」の意味です。播磨国にある高砂とは違います。 【尾の上の桜】「尾の上」「峰の上」、つまり「山頂」を意味しています。 【咲きにけり】「咲いているなあ!」という詩的な感動を表します。 【外山の霞】「外山」は人里近い低い山のことです。「深山」などに対する言葉です。「霞」は立春の頃にたつ霧のこと。春にたつのを「霞」、秋にたつのを「霧」と呼びます。 【たたずもあらなむ】「立たないでいてくれ」という願いを詠っています。遠くの高山の桜があまり美しいためです。

七十四番 源俊頼朝臣みなもとのとしよりあそん

憂うかりける
人ひとを初瀬はつせの
山やまおろしよ

はげしかれとは
祈いのらぬものを

~ 歌の意味 ~

私につれないあの人の心が少しでも私になびくよう、長谷寺の観音様にお祈りしたのに。

百人一首の71番に選ばれている大納言経信の3男です。雅楽の「ひちりき」を得意とし、堀河天皇の楽人となりましたが、その後和歌の才能も認められ、白河天皇の命で「金葉集」の撰者となりました。和歌は非常に技巧的でしかも情感があり、藤原定家が絶賛しています。その作風は、後世までとても大きな影響を与えました。
【うかりける 人を】「つれないあの人を」という意味です。 【初瀬の山あらしよ】「初瀬」は現在の奈良県櫻井市にあり、平安時代にさかんだった観音信仰で有名な長谷寺があります。「山あらし」は山から吹き下ろしてくる激しい風です。 【はげしかれとは】「もっと激しくなれ」と呼びかけた言い方です。 【祈らぬものを】「祈らなかったのに」という意味です。

七十五番 藤原基俊ふじわらのもととし

契ちぎりおきし
させもが露つゆを
いのちにて

あはれ今年ことしの
秋あきもいぬめり

~ 歌の意味 ~

約束したじゃないの。ヨモギについた露のように心づよいあなたの言葉を信じて、それなのに、ああ、今年の秋も願いがかなわず、行っちゃった。

和歌や漢詩の才能に優れ、名家の出身でしたが、才能を鼻にかけるくせがあったようで官位は従五位上・左衛門佐に止まっています。源俊頼(百人一首74番)のライバルで当時の歌壇の重鎮でした。若い頃の藤原俊成が入門しています。
【契りおきし】「約束しておいた」という意味です。 【させもが露】「させも草」は、平安時代の万能薬だったヨモギのこと。「露」は恵みの露という意味で、作者が息子のことを頼んだ藤原忠通が「まかせておけ」とほのめかしたことを指します。 【命にて】「たのみにして」という意味です。 【あはれ】「ああ」、と感情をこめて洩らす感動詞です。 【秋もいぬめり】「往ぬ」は「過ぎる」で「秋も過ぎ去ってしまうことだろう」という意味です。

七十六番 法性寺入道前関白太政大臣ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん

わたの原はら
こぎ出いでてみれば
久方ひさかたの

雲くもゐにまがふ
沖おきつ白波しらなみ

~ 歌の意味 ~

広い海に船で漕ぎ出してみた。遠くを眺めると、空に浮かぶ雲と、見分けがつかないような白波が立っているじゃないですか。

藤原忠通(ただみち) 摂政関白藤原忠実の息子。若いうちから関白・氏の長者(一族の長のこと。藤原氏の総帥)となり、太政大臣従一位に至りました。詩歌や書にも才能を示し、晩年には出家して、「法性寺殿」と呼ばれました。保元の乱の時には後白河天皇側につき、崇徳上皇・藤原頼長と対立。平清盛らの軍勢が崇徳上皇側を破り、勝利を収めます。
【わたの原】広々とした大海原のこと。 【漕ぎ出でて見れば】「船で漕ぎ出して、見渡してみれば」という意味です。 【久かたの】 【雲居】ここでは雲そのものを意味しています。 【まがふ】「混じり合って見分けがつかなくなる」という意味です。ここでは白い波と白い雲の見分けがつかない、という意味です。 【沖つ白波】 「沖の白波」という意味です。

七十七番 崇徳院すとくいん

瀬せをはやみ
岩いはにせかるる
滝川たきがはの

われても末すゑに
あはむとぞ思おもふ

~ 歌の意味 ~

川の浅瀬で流れが速く、岩に邪魔されて流れが割れてしまっても、私たちはいつかはきっと逢うことができますよね。

鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に5歳で天皇の位を譲り受けました。18年の在位の後に近衛天皇に譲位し、鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれました。鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立。戦となります(保元の乱)が破れ、讃岐に流され、45歳で没しました。在位中に藤原顕輔に『詞花和歌集』を編纂させています。
【瀬を早み】「瀬」は川の浅いところのことです。「川の瀬の流れが速いので」という意味です。 【岩にせかるる 滝川の】「せかる」は「堰き止められる」という意味。「滝川」は、急流とか激流という意味です。 【われても末に】「水の流れが2つに分かれる」という意味と「男女が別れる」という意味を掛けています。「2つに分かれてたとしても後々には」という意味になります。 【逢はむとぞ思ふ】「水がまたひとつに合う」のと「別れた男女が再会する」の2つの意味を掛けています。「きっと逢いたいと思っている」という意味です。

七十八番 源兼昌みなもとのかねまさ

淡路島あはぢしま
かよふ千鳥ちどりの
鳴なく声こゑに

幾夜いくよねざめぬ
須磨すまの関守せきもり

~ 歌の意味 ~

淡路島から渡ってくる千鳥の鳴き声で、須磨の関守はいったい幾夜目を覚ましたことだろう。

宇多源氏の系統で、従五位下・皇后宮少進にまで昇った後、出家しました。多くの歌合せに出席して、「兼昌入道」などと称しています。
【淡路島】兵庫県の西南部沖に位置する島です。 【かよふ】「通ってくる」の意味です。 【千鳥】水辺に住む小型の鳥で、群をなして飛びます。 【いく夜寝覚めぬ】いく晩目を覚まさせられたことだろうか、の意味。 【須磨の関守】須磨は、現在の兵庫県神戸市須磨区で、摂津国の歌枕。すでに源兼昌の頃にはなくなっていましたが、かつては関所が置かれていました。関守とは、関所の番人のことです。

七十九番 左京大夫顕輔さきょうのだいぶあきすけ

秋風あきかぜに
たなびく雲くもの
たえ間まより

もれ出いづる月つきの
かげのさやけさ

~ 歌の意味 ~

秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ間からもれ出てくる月の光の、何と澄み切った美しさだろう。

本名・藤原顕輔(あきすけ)で、正三位左京太夫にまで昇進しました。勅撰和歌集の「詞華集」の撰者です。父は藤原顕季で摂関家並みの勢いがあり、「六条藤家」として知られています。
【秋風に たなびく】「秋風に吹かれて、横長に伸びてただよう」という意味になります。 【雲の絶え間より】「絶え間」は「とぎれたその間」という意味です。 【もれ出づる月の 影のさやけさ】「こぼれ射してくる」というような意味です。また「影」はこの場合「光」で、「月の影」は「月の光」を意味します。「さやけさ」は「澄みわたってくっきりしていること」という意味になります。

八十番 待賢門院堀河たいけんもんいんのほりかわ

長ながからむ
心こころも知しらず
黒髪くろかみの

乱みだれてけさは
物ものをこそ思おもへ

~ 歌の意味 ~

昨晩あなたは私を抱いて愛してくれましたが、いつまでも変わらずに私を愛してくれるのかしら。そんなことが心配で、この黒髪の乱れのように、私は物思いに沈んでいます。

神祇伯(じんぎはく)・源顕仲の娘で崇徳院の生母、待賢門院(鳥羽院の中宮・璋子(しょうし))に仕えて「堀河」と呼ばれました。息子の崇徳院は天皇在位後政略で退位させられますが、その時に待賢門院も追放され、堀河も一緒に出家しています。
【長からむ心】「末永く変わらない(相手の男の)心」の意味です。 【知らず】「(相手の心を)はかりかねて」というような意味です。 【黒髪の乱れて】「黒髪が寝乱れて」という意味ですが、「心が乱れて」という2重の意味になります。 【今朝は】男女が共に寝た翌朝であることを表しています。 【ものをこそ思へ】???
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⑨現代語訳81~90

八十一番 後徳大寺左大臣ごとくだいじのさだいじん

ほととぎす
鳴なきつる方かたを
ながむれば

ただありあけの
月つきぞ残のこれる

~ 歌の意味 ~

ホトトギスが鳴いたので、どこにいるのか探してみたが、ただ、明け方の月が空に残っているだけだったよ。

本名は藤原実定(さねただ)。百人一首の撰者、藤原定家のいとこでした。祖父も徳大寺左大臣と称されたので、区別するため後徳大寺左大臣と呼ばれます。詩歌管弦に優れ、平安時代末期の平氏が栄えた時代に大臣の職にありました。
【ほととぎす】夏の訪れを知らせる鳥として平安時代には愛され初音を聴くことがブームでした。 【鳴きつる方】「鳴いた方角」という意味になります。 【眺むれば】「見てみれば」という意味です。 【ただ有明の月ぞ残れる】全体で「その方向にはただ夜明け前の月がぽっかり浮かんでいるだけだった」という意味になります。

八十二番 道因法師どういんほうし

思おもひわび
さてもいのちは
あるものを

憂うきにたへぬは
涙なみだなりけり

~ 歌の意味 ~

あなたのことを思い、そのつれなさに生きていく気力もない。それでもこうやって生きているけれど、思いはかないません。こうやってこらえているのは涙なのですよ。(何か言ってよ。)

藤原敦家(あついえ)。従五位・左馬助(さまのすけ)でしたが、80歳を過ぎてから出家しました。晩年は比叡山に住みましたが、非常に長命で元気で、90歳を過ぎてから耳が遠くなっても歌会に出て講評を熱心に聞いていたそうです。本当に歌好きだったからか、死後、千載集に多くの歌が掲載されたのを喜び、選者・藤原俊成の夢に出てきてお礼を言ったという逸話が残っています。
【思ひわび】つれない相手に思い悩む気持ちを表す。 【さても】「そうであっても」の意味です。 【命はあるものを】「命は死なずに残っているのに」というような意味を表します。 【憂きに】想いがかなわない憂鬱の意味。 【堪へぬは】「こらえられないのは」という意味になります。 【涙なりけり】「涙だったんだなあ」というような意味を表します。

八十三番 皇太后宮大夫俊成こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい

世よの中なかよ
道みちこそなけれ
思おもひ入いる

山やまの奥おくにも
鹿しかぞ鳴なくなる

~ 歌の意味 ~

この世の中というものは、悲しみを逃れる道はないのだな。この悲しみから逃れるために山の奥に隠棲してみたけど、ここでも、悲しげに鹿が鳴いているじゃないか。(もう嫌だ~!)

藤原俊成(としなり)。百人一首の撰者、定家のお父さんです。歌論書「古来風躰抄(こらいふうたいしょう)」を著し、余情幽玄の世界を歌の理想としました。西行法師と並ぶ、平安末期最大の歌人です。正三位・皇太后宮大夫となり、63歳の時に病気になり出家、釈阿(しゃくあ)と名乗りました。
【世の中よ】「というものは、ああ…」というようなイメージでしょうか。 【道こそなけれ】「(悲しみを逃れる)方法などないものだ」という意味。 【思ひ入る】「深く考えこむこと」ですが、「入る」は「山に入る=隠遁する」と重ね合わされ、「隠棲しようと思い詰め、山に入る」という意味になります。 【山の奥にも】「山の奥」は、俗世間から離れた場所、という意味です。 【鹿ぞ鳴くなる】「鹿が鳴いている」という意味です。

八十四番 藤原清輔朝臣ふじわらのきよすけあそん

ながらへば
またこのごろや
しのばれむ

憂うしと見みし世よぞ
今いまは恋こひしき

~ 歌の意味 ~

この先もっと生きながらえていたならば、この辛い思いも懐かしく思うことができるのだろうか。 あのつらかった昔の思いでも、こうやって懐かしく思いだせるのだから。

百人一首79番の藤原顕輔(あきすけ)の次男でしたが、父とはずっと仲が悪く、若い頃は不遇で位も正四位下・太皇太后大進にとどまりました。中年になってからは評価が非常に高くなり、博学で歌学(和歌の研究)に優れて、王朝歌学の大成者と言われています。二条院に重用され、「続詞華集」の撰者となりましたが、院が死去したため、勅撰集にはなりませんでした。
【永らへば】「この世に生き長らえるなら」という意味です。 【またこの頃や しのばれむ】「懐かしく思い出す」という意味。 【憂しと見し世ぞ 今は恋しき】全体では「辛いと思っていたあの当時も今では恋しく思い出されるなあ」という意味です。

八十五番 俊恵法師しゅんえほうし

夜よもすがら
物もの思おもふころは
明あけやらで

閨ねやのひまさへ
つれなかりけり

~ 歌の意味 ~

夜通しあなたを思い、物思いに沈んでいるこの頃は、なかなか夜が明けてくれません。この寝室の隙間さえもいつまでも光が差し込んでくれません。つれないな。

源経信(つねのぶ)の孫、源俊頼(としより)の息子で、3代続けて百人一首に歌が選ばれています。奈良・東大寺の僧で、京都白川の自分の坊を「歌林苑(かりんえん)」と名付け、歌人たちのサロンとしました。「方丈記」の鴨長明などが俊恵法師の弟子として知られています。
【夜もすがら】「夜通し」という意味です。 【もの思ふ頃は】「毎晩つれない人のことを想って」という意味になります。 【明けやらで】「夜が明けきらないで」の意味になります。 【ねやのひまさへ】「ねや」は「寝室」のことで、「ひま」は「隙間」を意味します。「つれない想い人だけでなく寝室の隙間さえもが」という意味となります。 【つれなかりけり】「冷たい」とか「無情だ」とかいう意味。

八十六番 西行法師さいぎょうほうし

嘆なげけとて
月つきやは物ものを
思おもはする

かこち顔がほなる
わが涙なみだかな

~ 歌の意味 ~

「嘆け」と月が私を悲しませるのだろうか。いや、そうじゃないよね。月のせいにしたけど、私の涙の原因は、恋の悩みなのだよ。

俗名を佐藤義清(のりきよ)。鳥羽上皇に北面の武士として仕えていましたが、23歳の時に家庭と職を捨てて出家、京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ西行と号しました。出家後は、陸奥や四国・中国などを旅して数々の歌を詠み、漂泊の歌人として知られます。歌集に「山家集」があり、また彼の一生は「西行物語」に詳しく語られています。
【嘆けとて】「とて」は「~と言って」という意味の格助詞で、「月が私に嘆けと言って」という意味です。 【月やはものを】「~するのだろうか? いやそうではない」と訳します。 【思はする】「月が物思いにふけらせるのだろうか? いやそうではない」という意味になります。 【かこち顔なる】「かこつける」、つまり他人(ここでは月)のせいにする、という意味です。 【わが涙かな】 「かな」は詠嘆の終助詞です。

八十七番 寂蓮法師じゃくれんほうし

村雨むらさめの
露つゆもまだひぬ
まきの葉はに

霧きり立たちのぼる
秋あきの夕ゆふ暮ぐれ

~ 歌の意味 ~

にわか雨の露がまだ乾いていない槇の木の葉の茂みの中から、霧が立ち上っていく秋の夕暮れだよ。

俗名は藤原定長(さだなが)。藤原俊成の弟・阿闍梨俊海(あじゃりしゅんかい)の息子で俊成の養子です。30歳過ぎに出家し、全国を渡り歩いた後に嵯峨野に住みました。実力のあった歌人で、新古今和歌集の撰者に命じられますが、病気で没したため撰者とはされていません。
【村雨】にわか雨のことです。 【まだひぬ】「まだ乾かない」という意味になっています。 【真木】「真」は美称で「良い木材になる木」のことを指しています。杉や檜、槇などの常緑樹全体をこう言います。 【霧立ちのぼる】「霧」はもやのことですが、春なら「霞」秋なら「霧」と使い分けられます。 【秋の夕暮れ】幽玄を表す言葉で、秋は寂しい季節であり夕暮れもメランコリックな時間と考えられていました。

八十八番 皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとう

難波江なにはえの
葦あしのかりねの
ひとよゆゑ

みをつくしてや
恋こひわたるべき

~ 歌の意味 ~

難波の入江に生えている蘆の刈根の一節のように、短いひと時をあなたと過ごしただけで、これからずっと身も心もあなたに捧げて恋に苦しまなければならないのでしょうか。(そんなの嫌よ。責任取ってよ。)

源俊隆の娘で崇徳院皇后(皇嘉門院)聖子(せいし)に仕えた女房でした。生没年は不詳ですが、1181年に出家して尼になったことが記録に残されています。別当は、家政を司る役目です。
【難波江】摂津国難波(現在の大阪府大阪市)の入り江で、芦が群生する低湿地。百人一首にも何首かに取り上げられています。「芦」や「刈り根」、「一節」、「澪標(みおつくし)」などと縁語になっています。 【芦のかりねのひとよ】「芦を刈り取った根の一節」という意味と、「仮寝(旅先での仮の宿り)の一夜」という意味を掛けています。「ひとよ」は、芦の茎の節から節の間のことで、短いことを表しています。 【みをつくしてや】「澪標(みをつくし)」は、船が入り江を航行する時の目印になるように立てられた杭のことで、身を滅ぼすほどに恋こがれる意味の「身を尽し」と掛詞になっています。 【恋ひわたるべき】「わたる」は長く続くこと。

八十九番 式子内親王しょくしないしんのう

玉たまのをよ
たえなばたえね
ながらへば

忍しのぶることの
弱よわりもぞする

~ 歌の意味 ~

私の命よ、絶えてしまうのなら早く耐えてほしい。このまま生きながらえていると、きっと耐えきれずに、あなたとの秘め事が人に知られてしまうから。

後白河院の第三皇女で、「大炊御門斎院(おおいのみかどいつき)」と称されました。賀茂斉宮などを務めましたが、実兄の以仁王(もちひとおう)が源頼政が当時政権を握っていた平氏に対して挙兵し失敗した事件に連座。1197(建久8)年頃に出家しました。新古今集時代の代表的な女流歌人で、藤原俊成の弟子でした。なんと、藤原定家と恋愛関係にあったという説もあります。
【玉の緒】もともとは、首飾りなどに使われる玉を貫いた緒(ひものこと)のことです。しかしここでは「魂を身体につないでおく緒」の意味で使われています。 【絶えなば絶えね】「絶えてしまうのなら絶えてしまえ!」という意味の語気の強い言葉です。 【ながらえば】「生き長らえてしまうのならば」というような意味です。 【忍ぶる】「堪え忍ぶ」という意味です。 【よわりもぞする】「~すると困る」という意味になります。秘めた恋を堪え忍ぶ気持ちが弱くなって、恋が露見すると困る、というような意味になります。

九十番 殷富門院大輔いんぶもんいんのたいふ

見みせばやな
雄島をじまのあまの
袖そでだにも

濡ぬれにぞ濡ぬれし
色いろは変かはらず

~ 歌の意味 ~

見せてやりたいわ。毎日のように波であらわれている、あの雄島の漁師の袖でさえ色が変わらないのに、私の袖はあなたを思うあまりに、涙で色が変わっていることを。

従五位下・藤原信成(のぶなり)の娘で、後白河天皇の第一皇女、亮子(りょうし)内親王(式子内親王の姉で、後の殷富門院)に仕えました。当時は、小侍従(こじじゅう)と並ぶ女房の歌人として有名でした。非常にたくさんの歌を詠み、「千首大輔」と言われています。建久3(1192)年に殷富門院に従って出家し、尼となっています。
【見せばやな】「見せたいものだ」という意味になります。 【雄島の蜑の】「雄島」は、歌枕としても有名な陸奥国の松島にある島のひとつです。「蜑」は漁師のことで、海女と違い男女どちらでもこう言います。 【袖だにも】「袖でさえ」という意味になります。 【濡れにぞ濡れし】同じ動詞を繰り返して、意味を強める時に使われます。 【色は変はらず】袖の色が変わるのは、泣きすぎて涙が枯れ、ついには血の涙が流れるためです。
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⑩現代語訳91~100

九十一番 後京極摂政前太政大臣ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん

きりぎりす
鳴なくや霜夜しもよの
さむしろに

衣ころもかたしき
ひとりかも寝ねむ

~ 歌の意味 ~

こおろぎが鳴く霜の降る寒い夜に、むしろの上に衣の片袖を敷いて、私は一人寂しく眠るのでしょうか。

本名は藤原良経(よしつね)。関白藤原兼実の子供で、摂政・太政大臣になりましたが38歳で急死しました。早熟の天才で、10代の頃の歌が千載集に7首載せられています。新古今和歌集の仮名序を書き、号を秋篠月清(あきしのげっせい)といいます。おじいさんが百人一首76番に登場する法性寺忠通(ただみち)で、叔父さんが92番の慈円法師です。
【きりぎりす】コオロギのことです。 【鳴くや霜夜の】「霜夜」は「霜の降りる晩秋の寒い夜」のことです。ここまでで「こおろぎが鳴く霜の降る寒い夜の」という意味になります。 【さむしろに】「むしろ」は藁などで編んだ敷物で、シートのように使われました。「さむしろ」は「寒し」との掛詞になっています。 【衣かたしき】平安時代は、男性と女性が一緒に寝る場合は、お互いの着物の袖を枕代わりに敷いていました。「片敷き」は自分の袖を自分で敷く寂しい独り寝のことです。 【ひとりかも寝む】「独りで寝るんだろうか」という意味です。

九十二番 二条院讃岐にじょういんのさぬき

わが袖そでは
潮干しほひに見みえぬ
沖おきの石いしの

人ひとこそ知しらね
乾かわくまもなし

~ 歌の意味 ~

私の袖は、引き潮の時でさえも見えない沖の石のようだ。あなたを思うあまり涙でぬれて乾くまもありません。みんな知らないでしょ。この私の気持ち。

源三位頼政(げんさんみよりまさ)の娘。はじめ二条院に仕えた後、藤原重頼(しげより)と結婚しました。その後、後鳥羽天皇の中宮、宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)にも仕えていますが、晩年は以仁王の挙兵事件の関係で出家しました。
【潮干に見えぬ沖の石の】「潮干」は、海の水位が一番低くなる引き潮の状態のことを言います。 【人こそ知らね】「他人は知らないけれども」という意味です。「人」は、取り方によっては、「恋人(相手)」とも「世間の人々」ともとれます。 【乾く間もなし】文字通り乾く間もないという意味。

九十三番 鎌倉右大臣かまくらのうだいじん

世よの中なかは
つねにもがもな
渚なぎさこぐ

あまの小舟をぶねの
綱手つなでかなしも

~ 歌の意味 ~

今の世の中よ、いつまでも変わらないでくれ。渚をこぐ漁師の小舟が綱で引かれている風情は何とも心が引かれるものだから。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男で北条政子の息子、源実朝(さねとも)のことです。優しい人柄に繊細で鋭い感性を持ち、百人一首の撰者・定家の指導で和歌に親しみました。1203年12歳で3代鎌倉幕府将軍となりましたが、28歳になった1219年の正月、鶴岡八幡宮への参拝時に甥の公暁(くぎょう)に暗殺されました。「金槐和歌集」は実朝の作品集です。
【世の中は】「世の中」は、「今自分が生きているこの世界」という意味です。 【常にもがもな】「永遠に変わらない」という意味です。「もがも」は難しいことが叶ってほしいという、願望。全体で「永遠に変わらないでいてほしいものだ」という意味です。 【渚漕ぐ】「波打ち際」のことです。 【海人の小舟の綱手】「海人」は「漁師さん」のこと。「綱手」は舟の先に立てた棒に結びつける麻の綱のことです。川をさかのぼったりするときには、陸からこの綱で引っ張って上がっていきました。 【かなしも】「心が動かされるなあ」というような意味になります。

九十四番 参議雅経さんぎまさつね

み吉野よしのの
山やまの秋風あきかぜ
さ夜よふけて

ふるさと寒さむく
衣ころもうつなり

~ 歌の意味 ~

吉野の山から秋風が吹き夜が更けて、かつての都では、衣を打つ砧の音が寒々と聞こえてくる。

本名、藤原雅経(さつね)。後鳥羽院に気に入られ、新古今集の撰者の一人となりました。蹴鞠の元祖である飛鳥井(あすかい)家の先祖です。
【み吉野の】吉野は、桜の名所として名高い今の奈良県吉野郡吉野町のことです。 【さ夜ふけて】「夜がふけて」 【ふるさと寒く】「いにしえの都があり、忘れさびれた場所」のことです。吉野には古代に離宮がありました。 【衣打つなり】「衣を打つ音が聞こえてくる」という意味です。女性が夜にした仕事で、砧(きぬた)という柄のついた太い棒で衣を叩き、柔らかくして光沢を出しました。

九十五番 前大僧正慈円さきのだいそうじょうじえん

おほけなく
うき世よの民たみに
おほふかな

わが立たつ杣そまに
すみぞめの袖そで

~ 歌の意味 ~

身の程知らずといわれるかもしれないが、このつらい浮世を生きる民の上に比叡の仏様の力が宿った私の墨染の袖を覆いかけてやろう。(上から目線)

法性寺関白藤原忠通(ただみち)の息子。37歳の時に天台宗の座主(比叡山延暦寺の僧侶の最高職で首長)となりました。法名が慈円です。日本初の歴史論集「愚管抄」の作者でもあります。
【おほけなく】「おほけなし」は「身分分相応だ」とか「恐れ多い」という意味です。慈円は時の関白の息子でしたので高い身分でしたがここでは謙遜の意味で使っています。 【うき世の民】「うき世」は「憂き世」で、「辛い世の中」を意味しています。慈円の生きた時代は、保元・平治の乱など戦さが続いていました。「民」は人民のことです。 【おほふかな】「(墨染の袖で)覆うことだよ」という意味で、この場合は作者が僧ですので、仏の功徳によって人民を護り救済を祈ることを指しています。 【わがたつ杣に】「杣」は植林した木を切り出す山「杣山(そまやま)」のことで、ここでは比叡山を指します。「私が入り住むこの山で」という意味になります。この句は、比叡山の根本中堂を建てるときに最澄(伝教大師)が詠んだ「…我が立つ杣に冥加あらせ給へ(私が入り立つこの杣山に加護をお与えください」という歌をふまえています。 【墨染の袖】僧侶の着る墨染めの衣の袖の意味。「墨染」と「住み初め(住みはじめること)」の掛詞です。

九十六番 入道前太政大臣にゅうどうさきのだいじょうだいじん

花はなさそふ
嵐あらしの庭にはの
雪ゆきならで

ふりゆくものは
わが身みなりけり

~ 歌の意味 ~

花を散らす嵐の庭は、花が雪のように降っているが、それは老いてゆく自分を見ているようだな。

藤原公経(きんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつねとも呼ばれます。源頼朝の妹婿・一条能保の娘を妻にしました。定家の義弟です。後鳥羽院らが幕府転覆を企てた承久の乱の時、計画を知って幽閉されましたが、幕府に漏らして乱を失敗に終わらせました。
【花さそふ】「桜の花」を指します。嵐が桜を誘って散らす、という意味です。 【嵐の庭の雪ならで】「嵐」は山から吹き下ろす激しい風のことです。「雪」は散る桜の花びらを雪に見立てたもの。全体で「嵐が吹く庭の雪ではなくて」という意味になります。 【ふりゆくものは】「ふりゆく」は桜の花びらが「降りゆく」のと、作者自身が「古りゆく(老いてゆく)」のとの掛詞です。 【我が身なりけり】今気がついた、と発見した気持ちを表します。

九十七番 権中納言定家ごんちゅうなごんさだいえ

こぬ人ひとを
まつほの浦うらの
夕ゆふなぎに

焼やくやもしほの
身みもこがれつつ

~ 歌の意味 ~

いくら待っても来てくれないものだから。まるで、淡路島の北端の松帆の浦の夕凪のころで焼かれる藻塩のように、私の身も、恋焦がれているのですよ。

藤原定家。平安末期の大歌人藤原俊成の子として生まれ、正二位・権中納言まで出世しました。新古今集、新勅撰集の選者として有名ですが、何よりこの「小倉百人一首」を選んだ人として知られています。この歌のように叙情的な作品を得意とし、「有心体(うしんたい)」という表現スタイルを作りました。
【まつほの浦】兵庫県淡路島北端にある海岸の地名です。松帆浦の「松」と、「待つ」が掛詞になっています。 【藻塩】海藻から採る塩のこと。古い製法で、海藻に海水をかけて干し乾いたところで焼いて水に溶かし、さらに煮詰めて塩を精製しました。「焼く」や「藻塩」は「こがれ」と縁語で、和歌ではセットで使われます。 【夕なぎ】夕凪と書き、夕方、風が止んで海が静かになった状態のことです。山と海の温度が、朝と夕方にはほぼ同じになるので、こういう状態になります。 【身もこがれつつ】火の中で燃えて身を焦がす海藻の姿と、恋人を待ちこがれる少女の姿を重ねた言葉。

九十八番 従二位家隆じゅにいいえたか

風かぜそよぐ
ならの小川をがはの
夕ゆふ暮ぐれは

みそぎぞ夏なつの
しるしなりける

~ 歌の意味 ~

風がそよそよと吹いて楢の葉を揺らしている。このならの小川の夕暮れはまるで秋のようだ。でも、みそぎの行事が行われているのを見ると、まだ、夏なのだな。

藤原家隆(いえたか)のこと。従二位宮内卿にまで昇進し、京都の西、壬生のあたりに住んでいたので「壬生二位」と呼ばれていたそうです。
【風そよぐ】「そよぐ」は、「そよそよと音をたてる」という意味です。 【ならの小川の夕暮れは】「ならの小川」は、奈良市のことではなく、京都市北区の上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(みたらしがわ)を指しています。さらに「なら」はブナ科の落葉樹、ナラ(楢)の木との掛詞で、「神社の杜に生える楢の木の葉に風がそよぐ」意味と、「御手洗川に涼しい秋風が吹く」という意味を掛けています。 【みそぎぞ】「みそぎ」は「六月祓」のこと。川の水などで身を清め、穢れを払い落とすこと。現在の暦では8月上旬にあたります。「六月祓こそが」という意味です。 【夏のしるしなりける】「夏の証なのだよ」という意味になります。

九十九番 後鳥羽院ごとばいん

人ひともをし
人ひとも恨うらめし
あぢきなく

世よを思おもふゆゑに
物もの思おもふ身みは

~ 歌の意味 ~

人を愛おしくも、また、恨めしくも思います。私は、この世を面白くないと思い悩んでしまうのです。

高倉天皇の第四皇子で名前は尊成(たかひら)です。源平の戦が終わり、平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った年に5歳で即位。翌年鎌倉幕府が成立しました。その後、19歳で位を譲り院政をしきましたが、幕府と対立し、3代将軍源実朝暗殺事件の後、承久3年に北条義時討伐に失敗(承久の変)。隠岐へ流され、19年そこで暮らした後、崩御しました。歌会に熱心で藤原定家らに新古今和歌集の編纂を命じています。
【人もをし 人も恨めし】「をし」は「愛おしい」という意味になります。「恨めし」は「恨めしい」という意味です。 【あぢきなく】「面白くなく」という意味になります。 【世を思ふ故に】「世を思ふ」は「世間・天下のことを思いわずらう」という意味です。 【もの思ふ身は】「もの思ふ」は自分の心に沸き上がるさまざまな思いのことで、「身」は作者自身を指します。

百番 順徳院じゅんとくいん

百敷ももしきや
ふるき軒端のきばの
しのぶにも

なほあまりある
昔むかしなりけり

~ 歌の意味 ~

宮中の古い軒端に生えている忍草のように、忍んでも忍びつくせないほど慕われてくるのは、昔の天皇が政治をしていたころの御代だな。(鎌倉幕府なんて滅んでしまえ。)

後鳥羽天皇の第3皇子で、14歳で第84代の天皇に即位しました。後に父の後鳥羽院と一緒に企てた鎌倉幕府打倒の謀議「承久の乱」(承久3年・1221年)に破れ、佐渡へと流されました。佐渡へ流された後は、21年間島に住み、46歳で死去しています。父の後鳥羽院と同じく歌の名手で歌学書「八雲御抄(やくもみしょう)」を残しています。
【百敷や】「百敷(ももしき)」は「内裏」や「宮中」の意味。 【古き軒端】宮中の古びた建物の軒の端(屋根の端のこと)を意味しています。 【しのぶにも】「しのぶ」は「昔の栄華を懐かしく思う」という意味と、軒からぶら下がっている「忍ぶ草」の意味を掛けた掛詞です。ノキシノブはシダの一種で、荒れ果てた家などによく見られ、家が荒廃するさまを表すのによく使われます。ここでは、皇室の権威の衰退も意味しています。 【なほあまりある】「なほ」は「やはり」を意味。「あまりある」は「ありあまりほど」、つまり「しのんでもしのびきれない」というような意味です。 【昔なりけり】「昔なのだなあ」という意味です。この「昔」は皇室や貴族の栄えていた過去、醍醐天皇や村上天皇の在位していた延喜・天暦の時代を指すようです。
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